後輩寝取られ三話 (Pixiv Fanbox)
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穂乃香が電車で痴漢されてから二週間後、皮肉にもあの事件がきっかけで二人の仲はさらに接近することとなった。
ありふれた先輩後輩の間柄だったはずが、やたらと甘えてきたり行動を共にしたがることが多くなった。
おそらくまだ心の傷が癒えていないのだろう、そして降りかかった災難を共有できるのも自分しかいないのだろう。
「僕に、何とか出来ればいいんだけど……」
魁人にできるのは、穂乃香のすべてを受け入れることだけだった。
持っていた携帯をきつく握り締めると、ちょうどそのタイミングでメールが届いた。
受信箱を開けると、その穂乃香からだった。
「お兄ちゃん、ちょっと消しゴム……あれ、何やってんの?」
メールを開こうとした瞬間、妹の七海がノックもせずに部屋に入ってきた。
慌てて携帯を机の引き出しの中に突っ込むが遅かった、手の中からするりと抜けた携帯は七海の手の中に。
首を傾げていた小さな顔に笑みが浮かぶ。
「え、お兄ちゃん彼女できたの? すごいじゃん、どんな人なの?」
「彼女じゃない、新聞部の後輩だ」
「またまた、それにしてはずいぶんと仲がよさそうで、明日はデートでございますか、お兄様?」
ぱっちりとした丸い目が魁人の顔を覗き込む、背中を半分ほど覆う髪がふわりとなびいた。
携帯を取り戻そうと手を伸ばすと、相手はバスケ部ということもありあっさりと避けられてしまう。
片頬だけを持ち上げた微笑みを顔に貼り付けたまま手早いボタン捌きで次々とメールを読んでいく。
「からかうな、買い出しを手伝ってもらうだけだ」
「ふーん、ま……そういうことにしときましょうか、へー……芦澤さんっていうんだ、下は?」
白いTシャツの襟を広げて空気を送り込み、スパッツの裾を払いながらもう一度七海がにじり寄ってくる。
話すことはないと窓の外に目をやる。
満月の白い光にまぶしさすら感じた。
「確か、穂乃香って名前だったはず、もういいだろ」
「はいはーい、まったく妹にだけは冷たいんだから。ねえ、画像とかあったら見せてよ?」
「なんでお前にそんなこと……消しゴムやるからさっさと出ていってくれ」
本来の目的である消しゴムを七海向かって投げる、お返しと言わんばかりに向こうが勢いよく携帯を肋骨めがけて投げつけてきた。
「ふんっ、消しゴム返してあげないから。宿題するときに困ればいいんだ」
小さく舌を出して、悪戯っぽい上目遣いを見せながら勢い良くドアを閉める七海。
ぶつけられたところをさすりながら予備の消しゴムを引き出しから出し、そのままベッドの上に横たわる。
「デート、か……うーん」
女性と二人きりで出かけるという点ではデートなのだろう。
しかし、何のためらいもなくいい返事をくれた穂乃香にそのつもりはあるだろうか……目を瞑って考える。
自分にもあわよくば、という思いはあるが、穂乃香が痴漢されたことが脳裏をよぎる。
信頼に付け込んで邪な行為を強いるなど痴漢以下の行いでしかない。
「うー……ん」
堂々巡りがまどろみの沼へと手足を引っ張り、魁人は電気もつけたまま眠りについてしまった。
※※※
「ごめんなさい、バスで来たんですけど……渋滞に巻き込まれて」
「い、いいよ、気にしないで」
土曜日、魁人と穂乃香は郊外にある大手量販店に来ていた。
土地を広く使える分だけ店構えは大きく、食料品から衣類、電化製品まで何でも売っていた。
しかし値段も安いということもあり、店内のところどころに軽い人ごみができていた。
今日が休日であるということも拍車をかけているかもしれない。
「結構混んでますね、っと、最初は何を買うんですか?」
振り向いた穂乃香の服装に目を奪われる。
黒のニーソックスに茶色のショートパンツと一見ごく普通の格好だったが茶色にも黒にも隠されていない、隙間から顔を覗かせる太ももの白さが眩しかった。
彼女が背中を見せればプリプリと上を向いた安産型のお尻が窮屈そうにショートパンツの裏地を押し上げている。
ポケット部分に走る三本の横線が生地のはちきれ具合を教えてくれた。
そこまで派手な格好というわけではない、もっとも押さえつけようとしたことでかえって穂乃香の淫猥な部分が強調されているが。
「…………?」
「あ、ああ……まずはキーボードとCDRだから……四階か」
二つあるエレベーターの中央にある案内板を下から順番になぞっていると、右の扉が開いた。
地下の駐車場から乗ってきた家族連れやらで中は混雑していた。
率先して乗り込もうとした穂乃香が足を止め魁人の背中に隠れる。
「……階段で行こうか」
「すみません……」
奥にある階段を指差す、沈みそうになっていた顔が少しだけほころんだ。
魁人の後について、電化製品のコーナーへと向かった。
一階丸々売り場ということもあり、天井に繋がれたコーナーを表示するプレートだけが頼りだった。
※※※
「パソコンだからこっちかな……」
前を歩く魁人がちらちらと後ろを振り返る、迷子にでもなると思われているのだろうか。
一つしか違わないのに子供扱いされている気がして、軽く睨むように魁人を見上げた。
「大丈夫ですよ、ちゃんとついてきますから」
「ああ、そうだよね……ごめんごめん」
なぜか顔を赤くし、頬から汗を伝わせている。
言葉の歯切れの悪さも気になった。
二人の間の距離を縮める、今までは等間隔だった魁人の歩幅が急にばらばらになる。
彼の態度がぎこちなくなればそれが穂乃香にも伝染し、詰めようとした距離がすこしずつ広がってしまう。
「パソコン、壊れちゃったんですか?」
「キーボードが全部効かなくなったんだ。生徒会に予算の追加を申請したんだけど、代わりのキーボードを挿せば使えるって言われて……何万円もするからしょうがないんだけどね」
話をしながら、店内をぐるりと見回した。
二つ隣のプレートにはデジタルカメラと書かれていた。
「……どうしたの?」
「カメラ、ちょっと見てみたいなって……」
「そうか、二つあったほうがいいよな。あんまり高くないのだったら予算で買えると思うからいいよ」
「いいんですか? ありがとうございますっ」
これで魁人が取材中、自分も並行して写真を撮りに行くことができる。
嬉しさのあまり小走りになった。
「すごい、こんなにいっぱいあるんだ」
何メートルか歩いた先にある棚にカメラが規則正しく並んでいた。
その前をゆっくりと歩き品揃えを確かめるが、目があちらこちらに引っ張られてしまう。
一万円程度の、あまり高くないカメラを端から順に手に取ってみる。
ピンク色の可愛らしいボディが目を引いた。
電源の入ってない黒い画面を覗きながら撮影している自分をイメージする。
「これはちょっと作りが安っぽいんじゃない? デザインはすごくいいけど」
右肩に何かが触れた、不意打ちに飛び上がりそうになりながら後ろを向くと、キーボードの入った細長いダンボールをカゴに入れた魁人が。
驚かせてごめん、と目に申し訳なさを浮かべていた。
胸を撫で下ろしながら、別のカメラを見せてみた。
「先輩、じゃあこれは?」
「こっちは機能的には申し分ないけど、防水じゃないのか……」
吟味する目は真剣そのものだった。
無表情でありながらその目には意志の強さが湛えられている。
可愛さ重視で選ぼうとしていた自分が恥ずかしくなり、次を取ろうと伸ばした指にためらいが生まれ距離の縮みも緩やかになる。
「僕のおすすめはこれかな、余計な機能もなくて使いやすそうだし、手ブレ補正もしっかり効いてる」
カメラを持つように促された、触れると魁人が持っていたところが少し暖かくなっていた。
「じゃあ、これにしようかな……私じゃよくわからないので。色違い、あるかな……」
商品の後ろに並べられた箱から好きな色を選ぶ、ホワイト、シルバー、ブラック三種類の内、ホワイトを選ぶ。
「他には何買うんですか?」
「芦澤さんがカメラ見てる間に色々選んできたから」
カゴの中にはL判のフォト用紙、キーボードカバー、モニターの保護フィルム、CDRのスピンドルケースなどいろいろ入っていた。
空いたスペースにデジカメの箱も入れられる。
「そうだ、デジカメにつけるストラップ……あれ、全部品切れだ」
レジの店員に在庫を確認する。
短時間のやり取りの後、全て売り切れであることが判明したが、下の階のアクセサリー売り場にも商品があると教えてくれた。
「他のは僕が持つよ、芦澤さんはこれ」
「は、はい……大事にします」
店のロゴ入りの紙袋に入れられたデジカメを受け取る、思わず胸で抱え込んでしまった。
「使い方はまた学校で教えてあげるから」
知らず知らずの内に声が弾んでしまう、だんだんと大きくなる声に周りに聞こえてるんじゃないかと恥ずかしくなり、俯き加減のままトーンを落とす。
その後も、意図的に隣を歩く魁人の足が止まった、店員の言ったアクセサリー売り場に辿り着いたみたいだった。
「これなんかいいんじゃない? 本体の色と合ってると思うよ」
「ちょっと派手ですけど、似合うかなぁ」
「制服着て首からかけるんだよな、うーん……こっちは?」
「あ、可愛いですね、それにしようかな」
「っと…………ごめん、電話だ」
別のストラップを首からかけて指に巻きつけて弄ぶ、カメラや制服と似合うかどうか想像していると魁人がおもむろに携帯を取り出した。
デフォルトの着信音が鳴り響いている。
「七海か……もしもし……ああ、そうだよ、邪魔すんな、だから芦澤さんとは……」
「…………?」
「ごめん、妹だ。お金渡すから、会計だけしといてくれる?」
「は、はいっ」
近くにいる魁人と七海のやりとりに耳を傾けながら会計を済ませる。
お金を払って商品を受け取ったが話はまだ終わってないようだ。
「先輩の妹、七海さんって言うんだ………………あ、これ可愛い」
手にしたのは三日月を模したエメラルドグリーンのペンダントだった。
表面には小さな白い花の飾りが付いている。
付けてみたいな、と考えるがガラスケースの中にあり触れることはできなかった。
店員に聞いて出してもらおうとしたところで背後で足音が近づき、そして止まる。
「まったく……応援とか何考えて、芦澤さん、何見てたの?」
「いえ、何でもないです。えっと、この後は……?」
「喉乾いちゃったから、下で何か飲まない、奢るからさ」
※※※
穂乃香を連れて一階にあるフードコートに。
まだ昼前ということもあり客は多いものの空席もそれなりにあった。
「もうちょっと静かなところのほうがよかったかな、でも近くに店ないからな…………何飲む?」
「じゃあ、メロンソーダで」
「わかった、注文してくるね」
「あ、あの……あ、あ、あと……」
カウンターに向かおうと回れ右をして一歩踏み出すが、二歩目は穂乃香の声に中断させられた。
いつになく恥じらいを頬ににじませていた。
「何か食べる?」
「……ソフトクリームもお願いします、チョコレートとバニラのミックス…………こっちは、私がお金払いますから」
「いいよ、アイスも僕がお金出すから。付き合わせちゃったお礼ってことで」
小さくぺこっと頭を下げる穂乃香、ハーフリムの眼鏡と耳のあたりにかかった横髪が少し動いた。
ソフトクリームくらいで恥ずかしがる彼女を見て、愛おしい気持ちをさらに膨らませたままカウンターの前に立った。
「すみません、アイスコーヒーと、メロンソーダと、ソフトクリーム、チョコとバニラのミックスで」
二、三分したところでトレーに注文したものを乗せられた、ミルクをもう一つ余分にもらい席に戻る。
「お待たせ」
「ありがとうございます、いただきます」
「……いただきます」
「先輩って妹さんいるんですか?」
唇の端をクリームで白くしながら穂乃香が話しかけてきた。
ニヤニヤしながらからかうように電話をかけてきた七海のことを思い出す。
「いるんだけどさ、二つしか違わないからあまり兄妹っぽくないって言われるな」
「どんな人なんですか?」
興味の光がレンズの向こう側できらめいた。
一緒に取材に出かけて、誰かにインタビューするときこんな顔になっていたことを思い出す。
踏み込んだ質問にしばらく天井を見つめて考えながら、ゆっくりと口を開く。
「……芦澤さんとは正反対っぽいな、いつも口やかましいし、ノックしないで部屋に入ってくるし、甘い物絶対食べないし、バスケばっかりで勉強もぜんぜんしてないからなぁ」
「ふふっ……」
「どうしたの?」
「仲良さそうだなって……私はすごく離れた弟しかいないので、年が近いお兄ちゃんとか妹とかもほしかったなってずっと思ってたんです。弟もすごく可愛いですけど」
「いくつ離れてるの?」
「十二歳です。いつも私の後をついてきて、今日も一緒に行くって泣きだしちゃって、こっそり出てきました」
「芦澤さんのこと大好きなんだね」
ストローの色が緑から白に戻った。
口を離した穂乃香は魁人を真っ直ぐ見つめる。
軽く細めた柔和な目でありながらも引き結んだ唇からは真面目さが窺える。
「……だから、なんでしょうか。先輩にすごく甘えたくなっちゃうんです……」
「………………」
「やだ、私……何言ってるんだろ、ご、ごめんなさいっ。こんなこと言われても、困り……ますよ、ね?」
穂乃香の言う通り、魁人は困惑していた。
二人ともただの先輩後輩だと思っていなかった、知らぬ間に前進していた関係を否応なく思い知らされる。
何を言うべきか、言いたいことは何なのか……考えている間に、アイスコーヒーの氷が溶けてぶつかり合い、澄んだ音を出す。
「……困らない、そうやって言ってくれるのってすごく嬉しいかな」
「え……?」
「なんて言ったらいいのかな、その……ただの先輩でしかないって思われてるよりはずっと……」
穂乃香の両目が魁人を射抜かんばかりに見つめる、まっすぐとした、だがどこか弱々しい翳りがちらつく瞳にはあどけなさの中に大人への芽生えが見え隠れしていた。
「そう、なんですか……」
瞬きを繰り返す大きな目が閉じた、艶やかな長い睫毛が下瞼を隠す。
次の言葉を探しているのだろうか……自分から何か言うべきではないだろうか、下手に何かを言って傷つけたりしたら……浮かぶ疑念が脳裏に混沌をもたらす。
「………………」
「………………」
ついには二人とも黙り込んでしまった。
魁人としては、穂乃香に惹かれているのは否定出来ない事実だった。
シャツ越しに形を浮かばせる大きな胸と、白魚を思わせる細い指、瑞々しくも柔らかそうに膨らんだ絹頬……やり場を探すように目を慌ただしく動かしてしまう。
穂乃香は自分のことをどう思っているのか、先輩としてではなく異性として……点々と続く床の染みを目で追いながら言うべき何かを探す。
「ごめん、また電話だ……」
魁人が席を立ち、フードコートの外に出る。
なぜこんな話になったのか、さっきまではあんなに楽しかったのに……きっかけは自分だということはわかっている。
後悔ばかりが募り、鉛と化して胸の内に重たく広がる。
「…………私のせいだよね、それで、気まずくなっちゃって。馬鹿みたい」
着信音は聞こえなかった、おそらくは嘘なのだろう。
発した言葉を一つずつ思い出す、魁人のことを勝手に兄だと思って、都合よく甘えて……発端は痴漢されたことだろう、だがそれを理由に彼に依存するのは正しいのだろうか……それでももっと一緒にいたい、自分と向き合うほどに周りには濃い霧が広がった。
「…………」
他の席から聞こえる騒がしい声は不思議と耳に入らなかった。
どこまでも静かに広がる世界に一人きり、そんな気さえしてしまう。
「先輩……」
魁人は自分のことをどう思っているのか、向こうには年の近い妹がいるという話を思い出した。
妹同然にしか見られていないのか…… ここ一ヶ月、ずっと魁人と一緒にいたが、やはり肝心なところで本音を隠されている。
ついさっきまでの会話でも結局わかったのは”嫌いではない”ということだけであり、それ以上のことはわからない。
もっと彼のことが知りたかった、部活の時はともかくそれ以外では穂乃香が能動的に会話をすることが多かった。
氷が溶けたメロンソーダは緑色が薄くなっていた、上で見たペンダントを思い出す。
ソフトクリームはコーンから下が丸々残っているが、食べる気はしなくなっていた。
「…………」
魁人が戻ってきた、席につくと薄くなりかけたアイスコーヒーを一気に飲み干す。
日に焼けた喉が上から下へと動く。
「……電話、誰からだったんですか?」
「沢木だよ、ほら、前に会った」
新聞を貼り付けているとき、昇降口で会った人を思い出す。
直久に似た調子のよさそうな人だった。
ただ、魁人の目は泳いでおり、嘘をついているのは明らかだった。
それでも、多少なりとも気まずさは軽減されたようで、声のトーンは少しだけ上向きになっていた。
「そろそろ、出ようか」
「……はい」
トレーには溶けて柔らかくなり、コーンを湿らせたアイスクリームが残されていた。
それを口の中に放り込む、クリームの冷たさが少しだけ歯にしみた。
※※※
帰り道……昼過ぎということもあり太陽の位置は高く、バスを降りると肌を焼くような熱気がアスファルトから立ち上り、車内の冷房で涼しくなった身体を熱が撫で回し、汗の滴を引き出そうとしてくる。
「暑いですね……」
「うん……」
当たり障りのない会話が続くのだろう……そう思いながら魁人を見ると、隣に彼の姿はなかった。
振り向くと立ち止まって、視線を外しながら口を開こうとしている。
もっとも、言葉が出てこないのか上下の唇が自然と合わさってしまうが。
「……あのさ」
「………………?」
「ごめん、何でもない……」
「…………」
確信じみたものが、照りつける日差しとともに身にも心にも火をつけ、全身の毛穴をこじ開ける。
告白、しようとしていたのではないだろうか……聞き返せない自分がもどかしかった。
嬉しい半面、”言ってくれないの”と不満に思う気持ちもあった。
しかし何よりも大きいのは自分の狡さを許せない気持ちだった。
穂乃香にしても、魁人に単なる尊敬以上の思いを抱いていることは事実だった。
なら、自分から思いを伝えればいい……しかし、それはできなかった。
「あっ、先輩………………」
陽炎の向こうに去りゆく背中、見送ることしかできない自分の弱さと小ささを悔いた。
※※※
月曜日の昼休み、穂乃香が教室にやってきた。
メールで見せたいものがある、と言っていたので出向こうとしたところで彼女と鉢合わせた。
正直気が重かったが、それ以上穂乃香の全く気にしていないといった素振りに戸惑ってしまい、最初の一言がなかなか出てこなかった。
「…………見せたいものって?」
友人の冷やかすような視線を追い払いつつ、無表情を作り、極力平静を装いながら穂乃香を見上げた。
「……実は、あれから何枚か写真を撮ってみたんですけど」
机に置かれたのは彼女のデジカメだった、邪魔にならないようにまだ開けていない弁当箱を鞄に入れ直す。
たどたどしい、人差し指だけの操作で次々と画像を表示させていく。
意識せずに身体を寄せる仕草に、今まで通りでいてくれてありがたく思う一方で、否応なく感じ取ってしまう匂いと温もりが困惑を深くする。
「どうですか?」
「あ、ああ……きれいに撮れてるね、特にこれとか」
「本当ですか? よかった……ちゃんと使えてるみたいで」
画像はどれも適切に被写体を捉えている、新聞記事に貼り付ける写真としては文句のない出来だった。
カメラを返す恥じらうような、しかし咲きほころんだ花を思わせる月目がちの笑顔を返してくれた。
「穂乃香ちゃん、こんなところにいたんだ」
聞き覚えのある声が扉近くから響いた。
直久が二人の間に割って入ってくる、厚かましいとも思える行動に一瞬眉を顰めそうになるが、穂乃香は当たり前のように魁人から離れ、直久のためにスペースを作っていた。
わざわざ来るということはよほど大事な用なのだろうか、表情を戻し口を開こうとする穂乃香とすぐ隣に立つ直久のあいだで右耳に意識を集中させた。
「あ、朝洲君、どうしたの?」
「美雪ちゃんに聞いたらさ、ここにいるって……あ、どうも。すみません……話してたところなのに」
「いや、いいよ」
本音を言えばいいはずがない、だが理由もなく拒めば彼の気分を害するだろうし、穂乃香の前で器の小ささを見せることになる。
自分のほうが先輩なのだから、と追いだそうとする言葉を飲み込んで軽く頷いた。
「この前話してたCDなんだけど、さっき家に届いたって親からメールが来たんだ。外国から荷物が来たってびっくりしてたみたいだけど」
「そうなの? いいなー……私英語あんまり得意じゃないから」
「翻訳サイトとか見ながら、オークション端から当たって……今日さ……じゃなくて、良かったら貸してあげようか? 明日持ってくるから」
「いいの? ごめんね、いつも朝洲君ばっかり」
「そんなこと、気にしなくてもいいって。俺が好きでやってるんだから」
「………………」
何の話をしているのか、音楽を聞く習慣のない魁人には理解できないものだった。
ただ、穂乃香に変に思われても後にしてもらうべきだったのかもしれない。
口を閉じ、手を当てたまま見上げる、声色や表情から彼女のはしゃぎようがわかった。
自分と話す時よりも身振りも大きく、会話のトーンも高い。
瞳も輝きを増しているように見えた……自分以外の別の男と盛り上がられる疎外感に心が握りつぶされそうだった。
「……あ、先輩。ごめんなさい、一人で盛り上がっちゃって」
「大丈夫、ちょっと飲み物買ってくるから」
鞄の中には、すでにペットボトルが入っていたが、一人で押し黙っているのはどうにもいたたまれなかった。
穂乃香の追うような目付きを背中に感じつつ教室を出て学食近くの自販機へと向かう。
※※※
「廊下で話そうか」
「え? う、うん……」
内心を優越感で満たしながら、穂乃香の背中を抱いて廊下へと出る。
手のひらを上へとスライドさせると小さな盛り上がりを感じる、そこから右に真っ直ぐ指をなぞらせたところで避けられ、壁を背にされてしまった。
「やめてっ、もう……」
「おっと、ごめんごめん、気づかなかった。それよりさ……俺のこと、名前で呼んでくれない?」
「名前? 何で?」
「もっと穂乃香ちゃんと仲良くなりたいから。俺だけ名前で呼ぶのって不公平でしょ?」
見せつけてやりたい思いもあったが、魁人が消えてくれたのは好都合だった。
壁と自分の身体で彼女をサンドイッチにしつつ、警戒されないギリギリのところまでにじり寄る。
案の定、向こうは身じろぎもせずに姿勢を保っている。
「でも、恥ずかしい……男の子のこと名前で呼ぶのってあんまりしたことないよ」
「じゃあ、ほら……俺から始めてって慣れるって感じで。二人でいる時だけでいいからさ」
譲歩を求めれば、穂乃香の気持ちも揺らぐ。
それを証明するように両手の指がもつれだした。
あと一押しと彼女の細くしっとりとした指に自分の指を絡ませる。
「……二人っきりになんて、めったにならないような」
「だからさ、たまにはいいかなーって」
「…………やっぱりだめっ」
穂乃香の目線が右に外れたところで、白い山脈を思わせるブラウス越しの乳房の膨らみをじっくりと見つめる、見たところに粘液がへばりつきそうなくらい、ゆっくりと顔を動かす。
限界まで目を凝らすことで確認できるブラのライン、それ以上に見たいのは左右にブラウスが引っ張られることで生まれる隙間から顔を覗かせる乳肌だった。
しかし、学校指定のネクタイがそれを邪魔する。
髪だの腕だのに触れてきたが……未知の領域に伸びようとする右手を左手で押しとどめる。
「そういうのは、好きな人とかにやってもらったほうがいいんじゃない?」
「……そうだね、そうするよ」
※※※
必要もないスポーツドリンクを買って教室に戻ってくるが、二人は廊下に場所を移し、話を続けていた。
扉から離れたところにいたので会話の中身は耳に入らずに済んだ。
「…………」
呼び寄せて引き離すべきか、そうしたところで何を話せばいいか……迷った結果、一人で席について弁当を広げた。
箸を伸ばしたところで机の上に影ができる、顔を向けると沢木がいた。
「沢木か、どうしたんだ?」
「お前の彼女、一年生の男とあっち行ったぞ」
「彼女じゃないから」
「そうかぁ? どう見ても恋人通り越して夫婦だけどな」
「何言ってるんだよ、芦澤さんが、そんな……」
ごまかしながらスポーツドリンクを一口飲む、冷えた液体が喉を下ると動揺が少し薄れた。
「まあどっちでもいいけどさ、あの朝洲って奴には気をつけたほうがいいかもな。どう考えてもあの子のこと狙ってるぞ」
「彼が? あ、ああ…………」
今日もわざわざ二人の前にやってきて、これみよがしに穂乃香と親しそうに話す。沢木の言う通りかもしれなかった。
「………………」
影が消えた、ペットボトルに浮かんだ水滴がきらりと光る。
箸と口を動かし、弁当を食べ続けた、五分、十分……食べ終わりしばらく経っても彼女は戻って来なかった。
今日は部活もない、たまには早く帰って本でも読もうかと白い雲混じりの青空を見ながら早足で校門をくぐる、出てすぐのところに穂乃香がいた。
「芦澤さん……」
「あのっ、途中まで一緒に帰りませんか?」
断る理由もない、歩調を彼女に合わせて隣を歩く。
夕方前だからか、駅へと続く住宅街は静まり返っており、立ち並ぶ家とまっすぐ伸びた道路が続く中、コンクリートを叩く音だけが風に乗って耳に届けられた。
「さっきは、ごめんなさい……私から先輩に会いに来たのに」
「いいよ、気にしてないから」
「…………」
直久と何を話していたのか、音楽の話か、昨日のテレビの話か、以前少しだけ聞いたが、食べ物の好みも似ているらしい。
逆に、魁人との一致点は少ない……気になるが自分では話に付いていけるはずもない。
「………………」
逆に、自分のフィールドで話題を振ってみるのはどうだろうか……部活と勉強ばかりで何もしていないことに今更ながら気付かされた。
「テレビって一日何時間くらい見るの?」
聞く側に徹しながら話を広げていく……二人の間に流れる空気を暖かく、柔らかい物にするためには手は一つしかなかった。
「え? そうですね……曜日にもよりますけど、大体二、三時間くらいでしょうか。どうしたんですか、急に……」
「いや、僕全然見ないからさ。本読んだりネットしたりはするんだけど」
「そのほうがいいかもしれませんね。気がついたら何時間も経ってたってこと、よくあります」
言葉を並べて交わすことで、内面にくすぶっていた緊張も狼狽も溶けてなくなっていく。
当り障りのない話を重ねていくだけでよかったのか、勝手に直久に劣等感を覚えていた自分が馬鹿みたいだった。
「それで…………きゃっ!」
「だ、大丈夫?」
その時、穂乃香が何かに躓いてよろけた。
とっさに右手を伸ばし彼女の二の腕を掴む……が、触れた場所が悪かった。
四本の指が柔らかい何かに埋もれた。
腕の弾力を感じさせる肉とは違う、羽根布団のようにふっくらとしており、底なし沼のようにどこまでも指を飲み込む。
視認より先にそれに触れている指を軽く動かして正体を探る。
指の動きに纏わり付くそれは、穂乃香が脇を締めたのでいっそう深く飲み込まれてしまう。
「ひ、やあっ……」
転ばずに済んだ彼女から何故か上がる二度目の悲鳴、右手に焦点を当てる、柔らかい何かは大きな胸だった。
穂乃香が身を捩る、一度離れた乳房が反動をつけて指を押しつぶす。
わずかに空気を抜いた軟式テニスのボールを思わせる感触に、手を離すタイミングをすっかり失ってしまった。
「あ、ああぁ、のっ、せん、ぱい……」
「ああっ! ごめん……わざとじゃないから、本当に」
口をぱくぱくとさせる顔が魁人を現実に引き戻した、眉根を寄せて唇を結んだ表情、彼女が怒るのも無理はなかった。
滾る性欲に情けなさを感じながら何度も頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、私こそ変な声出しちゃって。びっくりしちゃっただけ、ですから」
魁人が手を差し伸べてくれなかったら転んで怪我をしていたのかもしれない。
だが、胸を触られたことで羞恥は極点にまで達する。
身体中が熱いのは強い日差しのせいばかりではないだろう。
触れ合ったのは痴漢され、助けられ、その時抱きついたのを含めればこれで二度目だった。
最初は悲しくて泣いてばかりだったのでよくわからなかったが今は違う。
掴まれたところにも、指が掠めたところにも、指が残っている気がして仕方がなかった。
だからと言って気持ち悪いわけではない、消え入りたいほどの恥ずかしさの内には、触れ合っていたいという甘えるような気持ちがあった。
「……だから、その、き、気にしなくても大丈夫ですよ」
胸の高鳴りはいつまで経っても収まらない、魁人の顔を見ることさえできない。
やっぱり好きなんだろうか…………心の奥底から本当の気持を掘り起こした瞬間だった。
素直になればふっと周りが開けて見え、視界も明るくなる。
「…………」
導き出された答えが次の問題へと変わる。
魁人は自分のことをどう思っているのか、異性として見てくれているのか、それとも単なる後輩でしかないのか……どうせ堂々巡りで答えなど出るはずもないのに、一度脳裏にちらつくと、このことばかりを考えてしまう。
真実を知るのは簡単だった、今ここで思いを打ち明ければいい……だが真実を知るのは困難だった、羞恥が分厚く硬い檻と化しており閉じた口も接着剤で貼り付いているように開いてくれなかった。
「そ、それならいいんだけど……」
「今度から、転ばないように気をつけます」
このままだとあと何分もしない内に別れることになる、だがもう少しだけ穂乃香と一緒にいたかった。
今日だけではない、これからもずっと。
「……ちょっと、寄ってかない?」
「? はい、いいですけど」
何か理由を聞かれる前に、駅とは反対方向にある公園へと向かった。
これで多少だが時間稼ぎができる、時間が増えたところで思いを伝えられる確証があるわけではなかったが。
住宅地の真ん中にある公園、噴水の近くを通り抜け、大きな木の真下にあるベンチへと座った。
「涼しいね」
「はい……」
遠くに水の流れる音が聞こえた、合わせて虫の鳴き声に風の音……人の気配は全く感じられず、少し落ち着くことができた。
穂乃香の横顔を盗み見つつ、今からすべきことを頭の中で整理し直す。
最初に思いを伝えなければならない、どれほど言葉を並べてもそれが一方通行なら悲惨極まりないだろう。
木々のざわめきが耳を、頬を撫でる。
「…………先輩?」
「………………」
もう一度穂乃香に目を向ける。
揃えられた前髪がそよいでいた、滲む汗をハンカチで拭う仕草に見とれながら、どう切り出せばいいのか、学校の試験以上に頭を回転させ、正しい答えを探し続ける。
早く言わなければ、こちらに向けられた笑顔が次第に曇り始めてきた、何の用かわからないのだから当然だろう。
後ろ髪をいじりながら小首を傾げる穂乃香を横目に、鞄に手を突っ込む。
中指に紙袋が引っかかった。
もう最初の一歩は踏み出してしまった、いまさら後戻りはできない。
ここは躊躇いなく思いをぶつけて、彼女に優柔不断ではないところを見せてやりたい……のだが気持ちばかりが空回りする。
「…………じ、実は……芦澤さんに渡したい物が」
「渡したい物……何ですか?」
カバンを開けて小さな紙袋を出す。
開けた中にあるのは、ガラスでできた三日月のペンダントだった。
「この前買い物に行った時、見てたよね……もしかして、欲しいのかなって……」
「どう、して…………?」
言え、言うんだ、自分を奮い立たせる。
膝の近くにおいた握り拳は震え、さっきから汗が止まらない。
穂乃香はペンダントと魁人の顔を交互に見つめていた。
レンズ越しの細めた目からは何も読み取れない、いや……読み取るだけの思考力は残されていない。
「受け取って欲しい、その……僕、芦澤さんと、えっと……好き、だから、もっと、一緒にいたいなって」
刹那、勢い良く風が吹き抜けた、穂乃香が目をつぶってスカートの裾を押さえる。
時間が止まったように感じられた、穂乃香は地面に目を落とし、規則正しい折り目を皺にするくらい両手に力を込めたまま微動だにしなかった。
身体を嬲り続ける風は枝を揺さぶり、それぞれが纏った緑葉を重ねさせる。
その擦れ合う音に囃し立てられているという錯覚に襲われてしまった。
※※※
「…………」
好きだと最初に思いを打ち明けてもらえたのは、この上なくありがたかったとともに、きっかけを向こうに委ねてしまったことに罪悪感が芽吹き、心に棘を残す。
ただ、それ以上に嬉しかった……
「…………」
「ごめん、急に変なこと言っちゃって……忘れ」
差し出されたペンダントを受け取り、それを左手で包み込んだ。
あの時見ていたことに気づいてくれたんだと思い、目頭の熱に思わず目を閉じていた。
「忘れませんっ、だって、私も……先輩のことが………………好き、ですから」
「芦澤さん……」
涙で視界はぼやけ、周りの景色はいくつにも分裂していた、魁人の胸板に顔を預けてもう離さないと言いたげに抱きしめる。
汗を置き、火照った肌は魁人と密着することで熱さを増幅させる、だがそれ以上に偽りない気持ちを伝えられたことで確かな幸せを感じていた。
「ごめんなさい、本当は、私から言おうと思ってたんです。でも……先輩が、私のこと好きじゃなかったらどうしようって思って……」
「……僕も、同じ事考えてた、もし、違ったらって。本当はもっと前から言うつもりだったんだ」
握りしめていた左手の指を一本ずつ開かされる、魁人がチェーンの留め金を外すとそれを首に巻きつけて、また留める。
緑色のガラスが傾いた日差しに、控えめにきらめいた。
「似合うといいんだけど」
これ以上、二人の間に言葉はいらなかった。
※※※
「…………ちっ!」
物陰から見える光景、ひどく不快だった。
ひと目もはばからず抱き合う魁人と穂乃香に嫉妬の炎は大きくなるばかり。
早く手を出さなければとおもった矢先の出来事だった。
携帯のバイブレーションに、苛立ち半分でメールを確認すると青村からだった、だがそこに期待した文面はない。
なまじ期待していただけあって、肩の落ち具合も大きかった。
「もう少しかかる、か……くそっ、さっさとしろよ……じゃないと穂乃香ちゃんが」
いっそ実力行使……とも考えたが、二人が晴れて恋人同士になったことで一緒にいる時間がますます増えるだろうと思うと成功する可能性は低そうだった。
隙を突けばあるいは、とも思うがその後が問題になる。
強く嫌悪感を抱かれてはどうしようもない、そして自分の力だけでは嫌悪感を全て何とかするのは難しいだろう。
どうしても青村の力を借りる必要があった。
魁人の背中に手を回して大きな胸を押し付ける穂乃香を見ながら、直久は妄想に浸る。
強引に組み敷かれ、最初こそ身をくねらせて、手足をばたつかせて拒むが、愛撫が進むにつれて両脚は宙を切り、たまらなくなった彼女が直久の背中に手を回す。
挿入を果たせば、絡みつく脚が膣外射精を許さない、あんな人どうでもいいから、直久君のほうがずっといい……魁人を取るに足らない存在に貶めた征服感、終わった後は愛液と精液混じりの男根をしゃぶらせる、都合のいい妄想だということはわかっている、しかしきっと実現できるはず、という根拠のない確信もあった。
「せいぜい今のうちに楽しんどけよ……」
二人が離れたところで我に返る。
負け惜しみではない、と自分に言い聞かせながらほくそ笑み、引き続き妄想の海に飛び込みつつ薄闇の中で小さくなる背中を見送る。