新作の進捗.3 (Pixiv Fanbox)
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「これは、いつの話だったかな」
「あまり定かではないのだけれど、確か数ヶ月前くらいだったと思うのだけれど」
「まあ、それは別にいいか。とにかく……」
「私は、たまにモデルの仕事をしているんだけどね」
「そうすると、芸能事務所に行かなくちゃいけないんだ」
「そこは幅広く芸能事業を行っているところでね」
「そこにはモデルの人も居れば、アイドルや俳優の人だって居るのさ」
「もちろん普通はモデル以外の人と関わる事はあまり無いのだけれど」
「その時は、たまたまその人が別の撮影で同じスタジオに居たんだ」
「その人は……まあ、名前は伏せておくけれど、かなり有名な人でね」
「この前は、ゴールデンタイムのドラマにもいい役柄で出演していたそうだよ」
「イケメンで有名とか、とある雑誌のアンケートでは抱かれたい俳優ナンバーワンだったとか……」
「まあ、色々自慢されたから嫌でも覚えてるだけで、私はあまり面白い人だとは思わなかったのだけど」
「それでも、君達よりはよっぽど見てくれは優れてると思うよ。客観的な事実としてね」
「それで、彼は確かに色んな女性を抱いていてね」
「ちょっとでも琴線に触れるとホテルに連れ込んで、抱いてしまうんだ」
「抱かれたい俳優ナンバーワンだなんて言われているけど、実は本当に、抱いている俳優ナンバーワンなんだ」
「女性は彼のような男の色気には弱いそうでね、事務所で知り合った人から聞いても、彼の顔や雰囲気に関しての評判は随分と良かったよ」
「けれど、それ以上に評判が良かったものがあるんだ」
「それはね、彼のセックスだよ」
「彼は所謂床上手と言おうか、とにかく女性をモノにするのが本当に上手くてね」
「実は、彼の仕事のほとんどは枕で手に入れたそうなんだ」
「俺と寝た女で、俺に潮を吹かされなかった女は居ない。なんて言ってたっけ」
「彼には、そう……ハメ撮りという物も見せてもらったよ」
「彼の人柄はそう面白いと感じなかったけど、あれは中々面白いものだと思ったよ」
「確かに、彼に抱かれている女性は、それはそれは気持ちよさそうにしていたんだ」
「イヤホンで音も聞かせてもらったけど、人はあんな叫び声を出すんだなと思ったくらいでね」
「脚をピンと張って、腰を仰け反らせて、死ぬ間際の断末魔みたいに、『イ゛く゛イ゛く゛イ゛く゛ぅぅぅ~~~っ♡♡♡♡♡』ってね」
「本当に、何か狂気的なものを感じるような、泣き叫ぶような……」
「特に顔なんて、見れたものじゃなかったよ」
「女として同情してしまうような、そんな顔だった」
「それを見せて、彼は得意げに言ってきたんだ」
「俺と寝た女は皆こうなる、そのハメ撮りで俺はコイツらを脅すんだ」
「若社長の女も、敏腕プロデューサーも、全員俺の性奴隷だ」
「だから、お前も俺に従え」
「お前の仕事を無くすのも、お前についての悪評を雑誌に流すのも、俺の指示一つで出来るんだ」
「そんな危険でメリットのない事を、賢い奴らがするはずないって思うだろ?」
「分かっていてもやめられないのさ、何故なら女は俺のチンポに抗えないから」
「お前も女に生まれた限り、俺には絶対に勝てない」
「雌として生まれてきた事を感謝するほどイかせて」
「俺の、セフレにしてやる……って」
「まあ、ちょっと、いやかなり、気持ち悪いよね」
「けど、確かにその動画の女性は気持ちよさそうだったんだ」
「だから、仕事がどうとかはどうでもいいけど、そっちにはほんのちょっとだけ興味があった」
「別に私は、自分の初めてが誰にどうとかはあんまり気にしないし」
「動画をばら撒くぞー、なんて言われたらその時はその時でどうにかすればいいし」
「そもそもそういう行為にに興味もあったから」
「セックスするのは嫌だけど、手淫やら何やらのテクニックだけ味わってみて」
「まあ、気持ちよくなければ帰ればいいやって思って、誘いに乗ってみる事にしたんだ」
「かなり性格は気持ち悪かったけど、幸い顔立ちに嫌悪感を感じたりはしなかったからね」
「まあ、性格の悪さと性的快感は関係ないし」
「一応、彼も女を食うのに手馴れているだけあって、こっちから望むまでは無理やり行為はしないみたいだった」
「力ずくでするまでもなく、前戯をすればその快楽をもっと味わおうと向こうからねだるから……なんだろうね」
「まあ、私もそうなれば、その時はその時かと思って」
「それで、彼とホテルに行ったんだ」
「隣で歩きながら風俗街に入ってね」
「色んな人に見られたよ、今からアイツがあの女を抱くんだって」
「彼もそれに慣れてたとは思うんだ、アイドルとか女優とかアナウンサーとか、熟練のAV女優なんかも手篭めにしてたみたいだし」
「けどね、彼は歩いてる途中、童貞みたいに股を押さえてよたよた歩くんだ」
「明らかに異常なぐらい興奮しちゃって、エスコートなんてできないし」
「ホテルの受付とかも、彼が役に立たなかったから私がする事になったからね」
「なんでそんなに緊張するかって言うとね」
「いくら女を抱いたって」
「私みたいな女は、抱いたことが無いからなんだよ」
「行き交う女のどれよりも顔が良くて」
「どんなグラビアアイドルとも比べ物にならないぐらい体つきの優れた、女」
「結局のところ、彼が抱いてきた女って、それなりの女だったんだ」
「彼とちょうど釣り合うぐらいの、世間からすると美人で体もいい女」
「けど、それは私には絶対に敵わない」
「それぐらいは、いくら君達にでも分かるよね?」
「けれど、彼は途中まで、理解できなかった」
「今際の際まで驕ったまま、私も同じように手篭めに出来ると思ったんだ」
「けれどね、来る途中に気付いちゃったんだ」
「私の胸が、ただ大きいだけじゃなくて」
「普通の女とは比べ物にならないくらい感触のいい、ふわふわの肉マシュマロみたいな肉が」
「みっちりと、ぎっしりと、隙間なく」
「蕩けるみたいに柔らかくて、ぷるんと葡萄の実が弾けるみたいにハリのあるそれが」
「たっぷり詰まっている事に、ようやく気がついたんだ」
「私なんて、女なんていつでも抱けるから」
「いつものように、ちょっと犯せばすぐ堕ちるから……って、驕っていたから、気付かなかった」
「適当に流し見で、エロそうだと漠然と思っただけで、注視しなかったから」
「私が、今まで抱いた女とは、生き物として違うという事に」
「ぜーんぜん、気が付かなかった」
「お尻だってそう」
「今まで幾度となく犯してきた、あんな肉とは全然、完璧に違う」
「指を埋めればめり込んで、むにゅうりと指の隙間からまろやかに溢れて」
「犯せば腰を柔らかく包みながら跳ね返して、腰振りをどこまでもアシストしてくれる」
「生殖器として、抜群に優れた、お尻」
「それは、今まで抱いた女とは、全く別のシロモノだったんだ」
「けれど、それを彼は、ただの上玉の女だと、そう勘違いしてしまった」
「その違い、彼のミスを例えるなら、そう……」
「皆より早く九九を覚えたぐらいの、ちょっと得意げな男の子が」
「今ならどんな問題でも解けるぞってイキがっているところに」
「線形代数の、2次形式の問題を解かせるような」
「それぐらい、次元の違う事だった」
「……なんて、そんな風な事を、後から彼が言っていたよ」
「ただその時は、私のカラダにひどく興奮してしまって」
「今からこれを抱ける、このどこから見たってセックスに長けた肉体を、抱ける」
「そう思ってしまうと、もう頭の中がそれだけになってしまうんだ」
「隣に、手を伸ばせば触れる距離に、その極上の肉があって」
「それは、今まで星の数ほどの女を抱いたからこそ、理解できてしまう」
「これを抱いたら、もうそこいらの女なんて、抱けなくなる」
「これと比べたら、今まで抱いた人気グラドルの膣なんて、くり抜いたコンニャクと同じ」
「それほどの、次元の違う、女」
「この機会を逃したら、もう二度と、こんな雌を味わうチャンスなんて訪れない」
「そう、確信してしまう」
「だからこそ、部屋に着いた時」
「もう、彼は茹で蛸みたいになってしまっていてね」
「今からこの女を使う……いや」
「この女を堕とすなんて、無理だ」
「今からこの女に、壊してもらう」
「そう考えると、もう腰が砕けてしまって」
「へたりこんでしまうんだ」
「彼はあれだけ百戦錬磨を豪語してたのに、ただ私と歩くだけで、情けなくそんな風になってね」
「けれど、最後の抵抗で」
「これを逃したら、もう死にたくなるほど後悔するから」
「震える手で、童貞くさい手つきで」
「必死にエスコートしようと、上着を脱がせるとね」
「彼は……その場で、蹲ってしまって」
「びゅーっ……っとね」
「それだけで、射精してしまったんだ」
「私はまだ、下着姿にもなっていなかった」
「ただ、薄着のシャツ姿になっただけ」
「けれど、彼は……そこに浮く、ブラジャー」
「それを見て、暴発したのかな」
「で……私はね」
「なんか、ひどく興醒めしちゃって」
「こんなにも、私の姿を見ただけで射精しちゃうのにさ」
「セックスで満足なんて、出来るわけないかって思って」
「もう、帰ろうとして」
「でも、そうするとさ、みっともなく泣きながら縋ってきたから」
「鬱陶しかったし、ちょっと可哀想かなって思って」
「でも、あんまり触れられたりはしたくなかったから」
「靴脱いで、靴下履いた足で顔を踏んづけてあげたんだ」
「そうしたら、そのまま匂いをたくさん嗅がれて」
「そして……射精しまくって、気絶しちゃったんだ」
「それを見て、ああ、男のヒトって、そうなんだって思ったよ」
「女を何人抱いただの、どれだけ気持ちよくしただのって言ってたのに」
「けど、そうなっちゃったから」
「男のヒトってみんな弱くて、壊すのなんて簡単なんだなぁって」
「それで、その人はもう動かなくなっちゃったから」
「その人に嗅がれた靴下だけ、履いてたくなかったから置いていって、帰ったんだ」
「気持ち悪かったし、もう会うこともないかなぁって思ってさ」
「それで、その後は……業界から居なくなっちゃった」
「後から聞いた話だけど、あれから全然女の人を抱かなくなっちゃって」
「たまに抱こうとしても、勃起もしないしセックスもてんでダメなマゾになっちゃったし」
「元々演技がそこまで上手くもないのにコネで出演が多かっただけで、普段の態度も良くなかったみたいだから、そのまま干されちゃって」
「今はもう、どこで何してるかも分かんないんだって」
「あの人、セックスだけは上手かったそうだから」
「一回ぐらい味わってみたかったんだけど」
「それが、あんな風になっちゃったんだから」
「だから、私はまだ処女だよ」
「それで……君達は何人、どんな女性を抱いたのかな?」
「私を満足させられるのかい?」
「私として、それに耐えられるのかい?」
「私を……どうにかしてくれるのなら、楽しみにしているけど」
「もしも君達が、彼みたいに大した事が無かったら」
「その後の人生は、保証出来ないよ」
「二度と、女の子なんて抱けないまま」
「一生、永遠に」
「私のカラダを夢見ながら」
「満足出来ないまま、一人自分を慰めて」
「弱々しく、マスターベーションに耽るだけの、情けないマゾヒストになってしまうだろうね」
「最も……自慰でイく事が出来るかすらも、保証できないけど」
──からん、と。
彼女が悠然とグラスを傾け、水で口を潤すと、溶けた氷が音を鳴らす。
その音がくっきりと聞こえるほど、場はしんと静まり返っていた。
男たちは、女たちは、いつから黙っていただろうか。
もう誰もかもが口を結び、膝の上で手を固く握っている。
その目は血走ったようで、息も全力疾走した後のよう。
彼女の話は、ちょっと火遊びを齧っているだけの、童貞に毛が生えた程度の人間にはあまりにも淫靡なものだった。
自分の全く知らない、味わったことも無い、次元の違う雌から与えられる快楽。
それは想像するに余りあるもので、生物の根源的な欲求をどこまでも煽って燻らせる。
今ならば、永久の命よりも無限の富よりも何よりも、ただ彼女を抱きたいと、そう思わずにはいられない。
彼らの理性は既に千切れ飛んでおり、言わば無防備に眠りこけたシマウマを前にした、三日も飲まず食わずのライオンのような状態である。
あとは、いつ飛びかかるか、それだけ。
そして、それはもちろん。
正真正銘の童貞である僕にとっては、今まで体験したことのない興奮となって襲いかかる。
ただでさえ性行為に幻想を抱きがちで、本当のセックスを知りもしない僕。
しかし、彼女との行為は、想像なんてどこまでも上回る。超えてしまう。優に超越してしまう。
そう確信を抱いて、それは絶対に間違っていないと本能がそう断定した。
脳の血管がブチ切れそうなほど勃起しながら、ちら、と目を前に向ける。
僕の正面に存在する、見るだけでどんなポルノよりも情欲を煽るその女性は、明らかにこちらを誘っているかのようだった。
目の前1m以内という、全ての男が垂涎して望むだろう絶好のスポットにいる早瀬さんは、その薄布の服の胸をぱたぱたとはためかせる。
それだけで空気がむっと甘いピンクに染まるかのような、異様なフェロモンが漂った。
それはきっと気のせいで、ただ彼女の飽和した艶美がそう誤認させただけだ。
だが、何故だか彼女が持つ性臭を詰め込みに詰め込んだ、やりすぎなほどの雌臭さが確かに鼻をついた。
流し目にこちらを見る彼女。
そのあからさまに誘うような目を見るだけで、股座がいきり立つ。
彼女はただ妖精のようにくすくすと笑って、この場にいる人間を、ひどく惑わせる。
彼女の語った話を、嘘だと断じたい。
ただ彼女の話を虚言だと、そう思い込みたい。
けれど、彼女の話を嘘だと信じるには、彼女の語り口はあまりにも真実味を帯びていた。
常識からすれば有り得ない、あまりにも鮮烈すぎる女体の、その色香とフェロモン、肉感と淫気の話が。
彼女のあだめいた声質と、しかし平然と世間話でもするようなどこか超然とした態度は、震え上がるほどの蠱惑があった。
それと同時に、平坦なトーンで語るからこそ、彼女の計り知れない恐ろしさが垣間見える。
早瀬さんにとっては至極当然、そうなって当たり前と言わんばかりに。
それに、聞いた事がある。
とある俳優が、芸能界から突如として消えた話を。
見たこともある。
インターネットに流出した、モザイク混じりの『不適切』な動画を。
それがメディアに流出した時には、既に隠し無しの本編動画も出回っており、今でもそういったサイトに行けば見れるそうだ。
それを見たであろう人間がSNSでその事を語り、そのうち話の本筋から外れ、男の性技を褒め称えて、女の快楽を羨んでいたのも記憶に新しい。
ちゅ、とカクテルグラスに刺さったストローを吸う唇が、てらてらとラメが混じったかのように照り輝く。
ちゅぱ、と口を離すと、ぷるりとした弾力を示すように震え、いかにも艶々といやらしい。
それに注視していると、舌がぺろりと、ゆっくり焦らすように拭う。
それを例えるならば、下品であるが、女性器の周りを指でなぞって男に媚びを売る娼婦のようとしか言いようがない。
彼女の淫らな口は、最早それほどに純粋な、セックスアピールとなっていた。
こんな話の後だからだろうか、彼女の一挙一頭足に、どうしても僕を勾引する色が映る。
普段の、もっと言えばここに現れた時の、美しさやスタイリッシュさは、決して失われてはいない。
むしろ、逆。
それらの異常なまでの発露が、妖艶の極みのような彼女の魅惑を引き立ててしまっているのだ。
ギラギラと、言葉すら失って、今にも飛びかかってきそうな男達。
そこに向かって、くす、と余裕綽々な笑みを漏らす。
挑発的に、誘うかのように。
男からしても女からしても、極めてそそる仕草。
しかし、少しだけ疑問が残る。
──何故、そんな急に、男を誘惑するような真似を?
ここに来た当初は、もっと……興味の無さそうな、クールな様子だったはず。
本当にただ、全員を誘って欲望のままに乱交でもするつもりだろうか。
しかし、どうもそうではなさそうで、何か企んでいるような、その態度はハニートラップにも似ているような。
そんな疑念を抱きかけるも、それを脳内に留まらせるだけの理性はもうない。
ただただ、劣欲がペニスに募る。
早瀬さんにあてられた雄はどうしようもなく、もうそれしか考えられない。
「ねぇ……」
異様に静かな座敷に、早瀬さんのどこかねっとりとした粘つきがある声が響く。
誰もが彼女の言葉に注意を注ぎ、一字一句聞き逃すまいと耳を傾ける。
何を言うのか、何を提案するのか。
瞬き一つ、身じろぎ一つせずに待ち構える僕達に、彼女は口端を釣り上げて言った。
「そろそろ……席替えでもしない?」
──席替え。
その言葉で、静かに場が燃え上がる。
ギラつく眼差しが、俺こそが、いや私こそがと叫んでいる。
今から殺し合いでも始めるかの如く、その目付きは狂気的なまでの執着が映っており、欲望に取り憑かれた様子が見て伺えた。
席替えとは、何か。
それは読んで字のごとく、席を変えることである。
しかし、合コンという場において、それは全く別の意味を持っている。
告白、ならびに好意を示すという、言わばカップル成立への第一歩。
この場においては、たった一人だけが天国へと向かい、残りの全員は死ぬよりも惨めな地獄へと落ちるデスゲームを意味する。
席替えのルールは、極めてシンプルだ。
誰かが座り、その隣に誰かが座る。
たったのそれだけだが、故に駆け引きが生まれ、明確な意思が示されるのだ。
誰かがそこに座って、もしもその隣に自分から早瀬さんが来てくれたなら。
また、誰かが座って、その隣に彼女を誘って、しかし座ることを拒否されたのなら。
前者ならば、天国。
少なくともそこに嫌悪の意思はなく、少なくともそれから特等席でコミュニケーションを取ることができるという、絶対的な特権を得られる。
逆に後者ならば、正気では耐え難い地獄だ。
自分との会話を拒否され、他の人間があの極上の美女と仲良さげに話しているところをまざまざと見せつけられる。
気が狂いそうなほどの嫉妬と羨望、あるいは悲哀を抱えながら、ただ唇を噛んで時が過ぎるのを待つしかないのだ。
僕達は胸をはやらせて、テーブルの横に出る。
そわそわと、転校したての小学生が初めて教室に入る時のような、それを何百倍にもしたような。
俺の隣に座ってくれるかも、なんて根拠のない自信を抱きながら、つま先を床に叩きながら。
今から誰かが特等席に座ることを許されて、残りの全員は地獄へ叩き落とされる。
それをたった一人選ぶのは、ただゆらりと立って、不敵に笑うあの女性。
早瀬さんが、その全てを決める。
彼女には、誰もが疑うはずもないほど、その権利があった。
もちろん、僕だって、その権利を賜りたい。
彼女の隣で、ただ座ることを許されたい。
彼女に僕という存在を承認されたい。
拒否されたくない。
彼女が僕を毛嫌いしていないという確証を得たい。
──けれど、だけれども。
この中で、たった一人、早瀬さんに選ばれる人間とは。
言い換えれば彼女のお気に入り、彼女に目をかけられた、最も魅力のある人間なのだ。
果たして僕がそうなろうなどというのは、それは大層な思い上がりである。
だから、まずは。
誰かが埋めなければならない隙間を、埋めよう。
一人目という、彼女の隣に座れる可能性が最も低い場所を、僕が埋めてしまおう。
たまたま彼女の正面に座れただけでも幸運だったのだから、そう多くを望むことはない。
しかし、僕以外の誰を、彼女は選ぶのだろうか。
それをこの奥まった席で、物見遊山といこう。
──そう思っていると。
するりと、それに追従して。
向こう側の、まだ誰も座っていない席ではなく、こちら側に向かって。
誰かが、座りに来る。
向かいのレーンが0人で、こちらのレーンはこれで2人。
それが意味するのは、つまり彼女は明確に、僕の隣に座りたくて来たという意味で。
その女性は、壁に体を押し付けるほど席を詰めた僕に対して、ほんの数センチだけ隙間を空けて座る。
例え体に触れてしまっても、事故としか言いようがない距離感で。
「……や、よろしく」
──っは……!?
長いまつ毛。女神のような美しい顔立ち。抜群のスタイル。
もう見間違えようがなく、その女性は。
──早瀬、さん……
「ん、渚って呼んでいーよ」
触れるほど近く、そこに彼女は座る。
早瀬……いや、渚さん。
体温を感じるほど、柔らかな甘い香りを感じるほど、近い。
今までの人生で、こんなに近くに女性の顔または体があったことが無い。
それが渚さんほどの美女であれば尚のこと、ある訳がない。
それくらい、もう死んでしまいそうなほど、近い。
何十センチ、何センチという距離感で、渚さんは僕の顔を覗き込む。
男女問わず、性別構わず等しく人間をかどわかし、一目と見ればたちまち虜にしてしまう、そんな顔がすぐ傍に。
渚さんはどこか悪戯っぽく、かつアダルティックで煽情的な表情をしながらも、何も言わない。
ただひたすらに、こちらに首を傾けて、可笑しそうに懐っこく微笑むだけだ。
──はっきり言って、心臓が持たない。
ただでさえ密接するほど近くに渚さんが居て、しかも僕に向かって柔らかく好意的な表情を向けているのだ。
画面越し、紙面越し、あるいは何メートル先から人の肩越しに、ようやく何気なく佇む姿を見られるような渚さんが。
僕だけに、頬杖をついて、無防備に甘えるような微笑みを向けている。
そう、渚さんは、僕に好意的な目を向けている。
あの、高嶺の花という言葉ですら言い表せないほど、どうしたって手の届かない場所で光を一身に浴びながら咲き誇る渚さんが、路傍の雑草である僕に。
どうせそれは、馬鹿な男によくある、あの美女は自分に気があると身の程も知らずに思いあがるような勘違いだろう。
普通に考えれば、それは当たり前の話だ。
勝手に心を奪われて、勝手に勘違いした僕が、勝手に告白して、そんなつもりじゃなかったとバッサリ切られて玉砕する。
僕と彼女に許される関係性というのは、せいぜいその程度が関の山。
そうだ、そうに違いない。
だから、勘違いしちゃ駄目だ。
そう必死に言い聞かせるが、そうするには渚さんの表情はあまりにも柔和で、あまりにも美しすぎた。
だからと言って、視線を少しでも下げると、もうそこは底なしの桃源郷。
とことん雄の理性を駄目にして、がむしゃらに抱き甘える事しか考えられなくなる、淫魔の肉の巣窟──渚さんの、余裕でメートル越えの、乳肉がある。
たぷり、とぷり、柔肉が呼吸に揺れている。
ただ手に持っただけのプリンが、どうしても発生する微弱な手の揺れに呼応して震えるように。
彼女は意図して僕を誘惑しているのではなく、ただそこに生きているだけでどうしようもなく雄を誘惑し、生殖本能を苛立たせてしまう。
渚さんはただ、生まれついての極上雌であるだけだ。
更にいうと、渚さんは、お酒を飲んで暑くなったのだろうか、上着をはだけている。
それがどれだけ男の本能を擽るかなど、最早語る必要すらないだろう。
渚さんの服の下、黒いインナーはぴっちりと窮屈で、ボディラインをこれでもかと強調する。
それ故に浮かび上がる、腰のくびれと対極的な、はち切れそうなほどの雌性。
もっちりとインナーの食い込みに反発しながらも、固体とは思えないほどふにゅりと容易に変形する蕩めきと言ったら、ない。
その見た目の感触は、手に取るよりもある意味で魔性を帯びており、視覚から理想を超えるほど理想的な、全男性が垂涎して夢見る感触を訴える。
──抱きたい。
どうしたって、そこにある乳房に対して、例え不能の男性であろうとも、その欲求に抗える筈がない。
誰の目があるとか、それに相応しい場所ではないとか、法律がどうのこうのとか、そういった事を一切合切無視して、あの夢みたいな乳房に抱き着いて顔をうずめたい。
あの、どう見たって僕の頭程度ならすっぽりと後頭部まで包めてしまうほどの、肉がみっちり詰まりに詰まった雌肉クッションに甘え尽くしたい。
とめどなくそんな欲望が沸き起こり、僕を破滅させようとする。
そうして一生を棒に振ったとしても、一度でも渚さんの体に触れられたなら、もう構わない。
そんな事を本気で思ってしまうほどに。
渚さんの魔的な蠱惑はそれだけに留まらない。
もっと下に目を向ければ、スカートの意味を成していないほどのスカートと、すべすべと眩しく輝く太もも、もっと言えば豊満な下半身が存在する。
間近で見るからこそ分かる、そのむっちりとした肉感は、失礼だがセックスの権化としか言いようがない。
座布団にむちむちと潰れた尻肉の、餅のような粘り気を帯びた淫肉の具合は、腰のぶつけ具合を想起させずにはいられない。
全くもって、何もかもが極上。
どこか男性性を感じさせる顔立ちのくせに、体つきは雌そのものなのも、格別にそそる。
もしも彼女が望むのならば、確実に、間違いなく、国が傾く。
そう断言できるほどの、普通の人間になんて触れられるわけがない、究極的なまでに雄を悩殺するカラダ。
もしも渚さんと一晩を共にする権利がオークションに掛けられたなら、石油王が、あるいは超巨大企業の社長が、今まで蓄えた全ての地位と財産を投げ打つだろう。
冗談ではなく、少なくとも僕には、そう思えた。
そして、もし、もしも。
そんな人の体が、すぐ目の前、数センチ指を動かせば触れうる範囲にあったなら。
どうなるだろうか。
どうなってしまうだろうか。
そんな事は、あえて想像するまでもない。
頭が沸騰するほどの興奮、脳みそが擦り切れるほどの獣欲が殴り掛かるように理性を打ち砕くだけだ。
ふー、ふー、といかにも昂っている荒い息を繰り返し、不躾にも視姦をやめられない。
ブラックホールのように視線を吸い込む彼女の淫らな肉が、今ですらたぷたぷと揺れている。
わきわきと、湧き上がる情動のままに、その雌性の塊を捏ね回すリハーサルをして。
やがて、その手はゆっくりと、無意識のまま彼女に吸い寄せられて──
──いや、駄目だ、やめろ!
自分のしそうになった事に我ながらぞっとして、手を引っ込める。
それと同時に、下に下に吸い寄せられる視線を、気力を振り絞って上へと戻した。
しかし、そこにはもちろん顔がある。
渚さんの、寒気がするほどに怜悧な顔立ちが。
どくどくと、心臓が跳ね回る。
殺し屋から銃口やナイフの切っ先を向けられるより、あるいは世界的な音楽コンクールで楽譜を忘れた時より、それよりも何百倍も緊張して、もう頭はすっかり真っ白。
ただ、あんなにじろじろと見てしまって絶対に嫌われたとか、体のどこを見てもアダルトビデオなんて比べ物にもならないほどえっちだったとか、顔を青くしたり赤くしたりして。
そして、そんな僕を見て、またも渚さんはくすくすと楽しげに笑う。
「ふふ……えっち」
笑い交じりに、全く咎める様子もなく、詰る。
それは嫌悪して責め立てるような声色ではなく、むしろ悩殺するかのような、恐ろしく妖艶かつ誘うような色で。
「見るだけなら、別にいいよ」
照れるでもなく、堂々と、惜しげもなく。
彼女は、その言葉がどれほど危険なのか理解しているのだろうか、そう言った。
そして、彼女の殺人的行為はそれだけに留まらない。
するりと身を寄せ、僕の膝に手を置いて、顔を耳元に近づけて。
「まあ……ちょっとぐらいなら、許してあげるよ。触るのも」
──────!!!
いよいよ心臓が止まりそうになり、体もまともに動かせない。
わたわたと、出来の悪い3Dポリゴンみたいに腕を動かして、彼女を押し戻そうとするも、既に彼女は定位置に戻っている。
──もう、何が何だかわからない。
僕を誘惑して、根こそぎ金でも毟り取るつもりなのだろうか。
だとしたら、やりすぎだ。
こんなにも、オーバーキルをする必要がどこにあろうか。
もう、もう、僕には渚さんしか見えない。
靡いたような態度をこんなにも見せて、なんて残酷な人なのだろうか。
とにかくその淫らな悪魔──もとい渚さんから視線を外したくて、彼女の顔を透かして後ろを見る。
そこにあったのは、恐ろしく殺意に満ちた顔、顔、顔。
ぽっと出の冴えない野郎に奪われた怒りと憎しみを見るからに募らせた、そんな表情が幾つも並んでいる。
鬼のような、いや、それよりは亡者のような、嘆きと妬みの感情が淵から溢れてきそうな、そんな顔。
そして、それらと目が合うと、止まった時が動き始めたかのようにばたばたと、醜いほど奪い合って、ガタガタと机を揺らしながら。
やがて一人の男が隙間を縫って、渚さんの隣に、自分から座りに行く。
これまた渚さんに触れそうなほど傍を陣取って、身を乗り出して、彼女が僕にそうしたように、その顔を覗き込むように。
「あの、渚ちゃん?そんな男よりさ……」
「早瀬さん、ね」
──両断。
今まで聞いたこともないほど冷たい声で、そちらを向きもせずに。
その男にはもっと距離を取るようジェスチャーを取りながら、僕にだけ、やたらと猫なで声で話しかける。
「あ、キミはいいからね。渚さんでも、渚ちゃんでも、渚でも、なーぎんでも」
愕然と、呆気に取られた顔で、男は固まる。
見ていて少し可哀そうなぐらいスッパリと断られて、嫌悪の意思を示された。
そして、近寄るなと手で合図され、僕のようにすぐ傍で彼女を見つめる事すら許されない。
そんな男の顔を、僕すらも唖然と見ていると、渚さん──僕は、本当に、そう呼んでいいのだろうか。あの男にはあんなに容赦なく名前で呼ぶなと突っぱねたのに、僕だけは良いのだろうか──は、その視線を遮るように手で彼の顔を隠す。
そして、もう片方の手で、僕の顎をそっと持ち上げると。
「はい、キミが見るのはこっち」
渚さんの顔と、僕の顔が向かい合うよう、強制的に向きを直される。
それは、所謂ところの顎クイというもの。
顔そのものを持たれ、まるで僕自身が渚さんの所有物にされたかのよう。
そして、そのまま渚さんの色気溢れる顔を強制的に見せつけられて、動悸が収まらない。
「フフ……ねえ、知ってるかい?顎というのは非常にデリケートな急所でね、そこに触れられて嫌がらないというのは、深い信頼……または、深い愛情を持っている証なんだよ」
──は、あ、え……
酸素の足りない金魚のように、僕はひたすら口をぱくぱくさせる。
いや、実際に酸素は足りていない。呼吸がままならない。
そんな僕に追い打ちをかけるかのように、渚さんはくすりと笑って続ける。
「おや……それを聞いても、キミは私の手を振り払わないんだね。それは、受け入れてくれる……という意味で捉えていいのかな?」
──……!!!
フフフ、と余裕たっぷりに笑いながら、彼女はようやく手を放す。
やっぱりキミは面白いね、なんて上機嫌にカクテルを呷りながら。
──もう、混乱するしかない。
こんなの、流石に、どう考えても。
……好意がある、としか、思えない。
せめてもの抵抗として、その裏にあるかも知れない思惑を探ってみるも、そもそも彼女には策略を張り巡らせる意味がない。
何故ならば、僕から毟れる程度のものは、彼女ならいくらでも手に入れられるから。
だから、つまり、これは。
彼女、渚さん自身の。
素のまま、ありのままの、好意。
そう結論付けるしか、ない。
何故、どうして、僕に。
僕が何をして、何故、そうなったのか。
ぐるぐると自問自答を続けても、答えなんて出るはずもなく、ただひたすらに、渚さんの色気に目が回る。
そうして、目を回していると。
渚さんしか見えなくて気づかなかったが、いつの間にか、僕達は囲まれていた。
他の参加者達、渚さんとお近づきになりたくてここに来た彼ら彼女らに。
もう渚さんの隣というVIP席を奪われた以上、あとの席順はどうでもよかったのだろう。
最早、それを争った形跡すらも無かった。
「…………」
血涙を流しそうな形相で、彼らは僕を睨んでいる。
その気持ちは、痛いほど理解できる。
僕が向こうの立場だったら、到底耐えきれないだろう。
けれど、それで僕を睨んだって、仕方ないじゃないか。
だって、理由とか理屈とかはともかく、こうして迫ってきているのは、渚さんの方なのだから。
そう声を上げたいが、そんな事をしたら火に油を注ぐだけだ。
だから、僕はもう、生まれてこの方初めて受けるような濃度の嫉妬を、黙って受けるしかない。
目だけで人を殺せるような視線を何とか受け流して、彼女が満足するまで、ここで黙っているしか。
「……ん?どうしたの?お酒もっと注文する?」
しかし、その元凶と言うべきか、彼女はとんと悪意の目線を気にしない。
さらりと普段通りの爽やかな笑顔で、店員を呼ぶボタンを押す。
「キミも何か頼む?このカクテル美味しいよ?」
もう、彼女の眼には、僕以外の人間は映っていないようだ。
渚さんは、ひたすら僕だけの方を向いて、楽しそうに喋っている。
「知ってるかい?この青いライチのカクテル、楊貴妃って言うんだけどね。キミも、嫌いじゃなければ一緒に頼む?」
──あ、は、はい……。
もう、内容は半分も理解できていない。
ただ、眼前いっぱいには渚さんの嬉しそうな顔があり、その後ろには大勢の悔しそうな顔があり。
もう二重の意味で、心臓が持たない。
頼むから、もう、どうにかなってくれ。
心底そう願っていると、とうとうこの情念渦巻く場は動き出す。
「……あ、ちょっとお花摘んでくるね」
それは他でもない、渚さんの手によって。
最も望ましくない、考えうる限り最悪の方に動き出す。
渚さんは、何の躊躇もなくすっくと立ちあがって、通路側へと歩き出した。
思わず、待って、と言わんばかりに渚さんに向かって手を伸ばす。
まるで、親がちょっとでも離れる事を極端に嫌う幼児が、愚図って追いすがるかのように。
その例えは実際にその通りで、この場において彼女は僕を唯一庇護してくれる、子供から見た親のようなものであった。
彼女という唯一のストッパーが居るからこそ、僕はこの場で五体満足で居られる。
けれど、渚さんが居なくなった以上、僕という目の上のたんこぶを、生かしておく道理は無い。
彼女はそれを知ってか知らずか──いや、聡明な彼女が知らない訳がない。
絶望する僕を置いて、彼女は。
「んー、事務所の人から電話が入ってるね。ついでに電話してくるから遅くなると思う。じゃあ、多分十分ぐらい席を外すから、私のカクテルとキミのカクテル、間違えないように置いといてね」
と、スマホを見ながら言い残し、通路の奥へと消えてゆく。
ひらひらと振られた彼女の手のひらが、いよいよ見えなくなったその瞬間。
「なあ、おい」
地の底から響くような、男の声がすぐ傍から聞こえる。
渚さんが居なくなったと見た途端、僕と男の間に空いた距離を一気に詰め寄ってきたのだ。
「お前さ、マジで殺すぞ」
ぐい、と胸襟を掴まれて、首が締まる。
男の声色は、もはやその言葉が脅しでも何でもない事を伝えていた。
その男の怒りや妬みは凄まじかっただろう。
なまじ近くに寄ったからこそ、彼は明確に渚さんの体に触れる事を否定され、また間近で僕という陰気で魅力のない男が渚さんと触れ合っている場面を見せつけられたのだ。
自分がそこに居たはずなのに、何故あいつが。
なんて思ったかは定かではないが、心底怒り狂っている事には変わりない。
多分、殴られるだけでは済まない。
それこそ五体満足で帰れる保証も無い。
救いを求めた訳ではないが、テーブルを挟んで向こう側、他の参加者が座っている方をちらりと見る。
けれど、それを見ている他の参加者は、目の前で起こりかけた犯罪を止めようともしない。
むしろ状況は劣勢も劣勢、彼ら彼女らの目線という目線が、殺せ殺せと男に語り掛けていた。
──ああ、本当に、死んだかも。
そう心の中で独り言ちて、ぎゅっと目を閉じると。
「すいませーん、ご注文の楊貴妃2杯ですー」
店員さんが、青いカクテルの入ったグラスを手に現れた。
それを見て、男はひとまず状況が悪いと判断したのか、僕の首から手を放す。
渚さんの席と、一応僕の前にもカクテルが運ばれ、場には異様な沈黙が流れた。
この場にあるグラスは、二つ。
渚さんが頼んだものと、渚さんに勧められて僕が注文したもの。
きっと彼らも、勧められれば喜んでそれを飲もうとしただろう。
しかし、そもそも彼らは、渚さんに一言でも、飲むかと聞かれはしなかった。
言い換えれば、それは自分たちが渚さんの眼中にないという証であり、彼らの腹を煮やす種。
そして、それが僕の目の前だけにあるということは、それもまた、言い換えてみれば。
──それが嬉しくない、なんて口が裂けても言えない。
渚さんという、誰もが認めるカリスマで、そして誰にも靡かない、雲の上の存在としか言えない憧れの存在に特別扱いされる優越感というのも、もちろんある。
しかし、それ以上に、ただ単純に、それは渚さんに認められている証左に他ならない。
ただ、この場においては、嬉しいのと同じだけ恐ろしい。
それがある事によって、命の危険すら生まれるほどに。
男たちは、黙って僕を睨んでいる。
胃が縮み上がるような沈黙。
そんな時間は、僕から見て左斜めの女によって破られた。
「そうだ、良いのがあるわよ」
わざと大げさに抑揚を付けた声だった。
その声で注目を集めた女は、いやにニヤついた、いかにも厭らしい下卑た笑みを浮かべて、持っていたバッグから──錠剤を取り出す。
見た目はごく普通の、白いタブレット。
故に、その効果は分からず、それがかえって恐怖を煽る。
──飲まされるのだろう、僕が。
睡眠薬だろうか、もしくは人体に有害なものだろうか。
どんな物でも、こいつらなら持っていてもおかしくはない。
少なくとも、他人に無理やり薬を飲ませるような人間の頭がマトモな訳がないからだ。
身構えていると、その薬は僕の隣の男の手に渡る。
僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
しかし、男は僕の方には見向きもしない。
彼が手に取ったのは──渚さんの、カクテルグラス。
「なァ、知ってるか?これ。まあ、お前みたいな陰キャは知らねぇわな」
ニヤニヤと、男たちが、女たちが、自分以外の全員が、笑っている。
まさに悪計というべき不気味な笑い顔は、背筋に奇妙なぞくつきを走らせた。
何か、自分が考えているよりも、もっとおぞましく悪意に満ちた事が起こる。
その醜悪な笑みを見ていると、そんな確信をどうしても抱いてしまい。
そして、その予感は、現実のものとなる。
「お前さ、レイプドラッグって聞いたことある?」
──……お前っっっ!!!
男が言ったその言葉、その意味を理解した途端、僕は脳の血管が切れるほどの激昂に襲われ、何も考えられずに男に掴みかかる。
しかし、その手はいとも簡単に掴まれて、抑え込まれてしまう。
この男の見るからに筋肉のついた太い腕に、僕の細い腕で敵う訳がなかった。
「おー怖い怖い。けど弱ぇな」
抵抗も空しく、薬はぽちゃりとグラスに落ちて、見せつけるようにゆっくりと溶け、沈む。
青く溶けたそれは、やがてカクテルの青色と混じり、もう僕のグラスのそれと見分けがつかない。
男はマドラーで一度それをかき回すと、下衆な笑いと共に言う。
「そいつはスッゲーよくキく媚薬でな、いっぺん飲んだらあの渚でも構わず俺らのちんぽにしゃぶりつくぜ」
──……ッッッ!!!
一瞬、ほんの一瞬、脳裏に浮かんだ映像をかき消す。
駄目だ、それだけは、何としても。
「あのお高くとまって、エロ肉見せつけてる癖に誰にもヤらせねぇカッコツケ女を、俺らで輪姦せると思うとマジ興奮するわ」
げらげらと、下品で道徳心の欠片もない笑い声が響く。
額には冷や汗が流れ、指先は凍えたかのように震えている。
──もう、僕はどうなってもいい。
とにかく、渚さんだけは、こいつらの毒牙に晒してはいけない。
僕は、そっと腰ポケットに手を入れて、そこにあるスマホを取り出そうとした。
「おっと、余計な事すんなよな」
が、それは男に阻まれる。
スマホは男の手に渡り、そのまま両手で、呆気なく。
──ぺきり。
間抜けな音を立てて、上下に二つ折り。
頼みの綱は、いとも簡単に投げ捨てられてしまった。
「分かってんだろうな?妙な真似したり、大声出したりしたら」
ぐい、と顔面を鷲掴みにされて、三白眼でぎろりと蛇睨み。
「お前のことぶっ殺して、渚もボコって無理やりレイプすっからな」
外道め。
そんな意思を込めて、真っ向から男を睨み返す。
正直、もう僕がどうこうされるのはどうだっていい。構わない。
ただただ、渚さんを卑劣に貶めようとしている目の前の奴らに、はらわたが煮えくり返っている。
その怒りを、目の前の男も感じ取ったのだろう。
しかし、ちょっと鍛えた中学男子にも腕相撲で負けるような人間に凄まれて、まさか先程の言葉を撤回しようと思うはずがない。
仔犬が必死に威嚇しているような、チグハグな滑稽さを揶揄するように、更に男は汚らしい言葉をぶつける。
「後で渚のことラブホに連れ込んで全員で犯すからさ、お前も来いよ。渚が俺らのオナホになるとこ特等席でみせてやっから」
──僕は、今までの人生で人を殴った事なんてないし、一時の感情の爆発で人を殴るような人間を、どちらかと言うと見下していた方だった。
「ああ、もちろんお前は渚には指一本触れさせねえけどな!渚が俺らに犯されてるとこ指咥えてみてろよ!」
──野郎っ!!!
しかし、いよいよ、脳の血管がブツンと切れた音がした。
もはや危険など顧みず、なりふり構わずに殴り掛かる。
アドレナリンが放出されているのだろう、周りの動きがいやにスローモーだ。
ゆっくりと、吐き気を催すような笑みを浮かべた男の顔面に、僕のぎこちない握り拳が向かう。
その間、様々なことが脳裏を過る。
渚さんの身が危ないとか、店に迷惑がかかるとか、暴行罪がどうのとか。
もし僕が冷静だったなら、そのどれか一つでも顧みて、必死に自分を落ち着けていただろう。
しかし、今は。
──ここは店内で、個室とは言え衆目もある。どれほど奴らが強くとも、数の利があろうとも、渚さんを無理やり手籠めにするような真似はできない。
──確かに店に迷惑はかかる。しかし、どうせこいつらを警察に突き出したって迷惑はかかるのだ。今更ちょっと暴力沙汰の事件があったぐらいが何だ。
──実刑判決がなんぼの物だ。情状酌量、もっと言えば執行猶予が付けば御の字だ。
兎も角、こいつだけは殴らねば気が済まなかった。
全く頭に血が上っており、冷静とは180度真逆の精神状態だった。
この後、少なくともこの男に、僕が殴って与えた痛みの、少なくとも何十倍もの苦痛を返される事は分かっていた。
そのもっと後、就活やら何やらのありとあらゆる場面で面倒ごとが付きまとう事なんて、自覚していない筈がなかった。
しかし、それでも。
それでも、ここでこの男を殴った事は、これから先の人生のどの瞬間でも、一度たりとも後悔はしない。
そう、確信を抱いていた。
だから、このまま、殴り抜く。
そう意思を込めて、全力で拳を振り抜いた。
けれど。
──っ……!
止められた。
何の躊躇も、少しの戸惑いや憂いも無く、持てる全ての力を乗せた殴打は、いとも簡単に。
確かに僕は、生まれてこの方暴力とは無縁で、モヤシの名を欲しいままにしている絵に描いたような貧弱文系男だ。
そんな男の、いかにも殴り慣れていないテレフォンパンチとは言え、しかし。
僕は、僕の拳を防いだその手を、ほんの少しも動かすことすら出来なかった。
その拳は、男の顔を捉えて、そのまま殴り抜こうとした拳だ。
男の顔面まで到達して、なお止めないように、それだけの力を入れて殴った。
体を弓なりに反らして、全身で、渾身の威力を込めて。
だが、その手のひらはまるで、地中深くまでがっちりと埋まった巨岩のように動かない。
全身の力を込めて、顔が真っ赤になるほど押しても、地面に杭打たれていると錯覚するほど微動だにしない。
不甲斐なさと悔しさを誤魔化すように、手の奥にある男の顔をせめて睨みつける。
ニヤついているだろう、小馬鹿にしているだろう。
そう思い、顔を上げると。
──……っ!?
「……くく、ふふふっ」
すらりとしなやかな、白魚にも似た細い指。
透き通るように白く、ごつごつとした男のそれとは対極的に柔らかな腕。
薄布一枚も纏わせずに、堂々と露わにした華奢な肩。
そして、何よりも尋常ならざる別次元の美しさを携えた、神話の女神のような顔立ちは、誰がどう見たって見紛うことなどあり得ない。
「もう、駄目だよ?そんな事をしたら、キミまでワルモノになってしまう」
男の後方から、音もなくぬっと現れた彼女──渚さん。