新作の進捗.4 (Pixiv Fanbox)
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目をひん剥いて驚く男を押しのけて、どすりと勢いよく僕の隣に座る。
今度こそ体がぴったりと密着するほど、腰と腰がくっつくほどに身を寄せて。
「キミは真っ白なままなのが魅力なんだ。だから、こうして」
そして、握り拳を形作ったままの僕の手の中に、そっと指を入れ込んで、解くように開く。
そのまま指と指を絡めて、きゅっと、優しくきつく、決して離れられない程度の力で、握る。
僕の右手と彼女の左手を、まっすぐ向き合ったまま、指の隙間に指をねじ込むようにして。
──恋人繋ぎ。
それは一般的にそう総称される、手と手の繋ぎ方。
文字通り恋人同士が、それも格別に愛情の強いカップルが行うような行為を、渚さんは涼やかに笑って行う。
「私が繋いでおいてあげよう。これでキミの右手は、私を愛することしかできなくなってしまったね」
──う、う……
相変わらず、渚さんの行動は、心臓に悪い。
あまりにも滑らかな、最高級のシルクで出来ているかのような手触りと、愛おしいように吸い付く潤いを兼ね備えた指が、張り詰めていた僕の感情を途端に塗り潰してしまう。
しかし、そんな甘い空気は長くは続かない。
「……おいおい、渚さんよ、そんなに俺らをほっとかれると寂しいぜ?」
隣の男が立ち上がり、渚さんを上から見下ろす。
最早下衆な感情を隠す様子も無い。
今からお前を襲って、無理やりレイプする。
目は口程に物を言うという言葉がぴったりなほど、男は太い腕を見せびらかして、下衆な笑みを浮かべた。
──っ……!そうだ、渚さん……!こいつら危険です!早く逃げましょう!
テーブルの向こう側に座っている奴等も立ち上がり、集団でレイプすると言わんばかりに邪な目を向ける。
囲んで殴って押さえつけて、自分の都合のいいようにこの女を従える。
倫理観を無視すれば、この上なく手っ取り早くて確実な方法だ。
体格では絶対に敵わない幾多もの人間に囲まれて、見下ろされる。
そんな絶体絶命の状態になって、僕は、途端に恐ろしくなり震えあがる。
今から起こるであろう惨劇にも、渚さんが汚されてしまう事にも、それから人間をここまで狂わせてしまう渚さんの魔性にも。
しかし、こんな状況になっても、渚さんは悠然とカクテルグラスを薫らせて、動こうとしない。
綽々と構えて、ただ平然と、優雅に流し目を向ける。
「んー……何で?」
──いや、あいつら渚さんのことを無理やり犯そうと……!って言うかそのカクテルも飲んじゃダメです!薬が入ってて……!
必死に捲し立てる僕を尻目に、渚さんはくすりと笑う。
まるで静かなバーのカウンターに座っているかのように落ち着き払って、そのまま。
──あ、や、ちょ……!
カクテルグラスを口につけ、傾ける。
美味しそうに、ゆっくりと、ゆっくりと、味わってから喉に落としてゆく。
唇から離し、かたん、とテーブルにグラスを置いたとき、その中身はもう既に空っぽで。
そして、ふう、と一息つくと、渚さんは。
「うん、知ってるよ」
と、一言。
何でもないように、そう言った。
──……!
目の前が真っ暗になってしまうような、衝撃。
気を失ってしまいそうなほどの驚愕に、僕の頭と視界がぐらりと揺れて、それと対照的に奴らはますます気を沸かせる。
女性を前後不覚にして、性に飢えたサキュバスのように淫欲を剝き出しにさせて、誰とでも、それこそ男性器さえ持っていればゴブリンのような容姿の男とであろうとまぐわってしまう、そんな媚薬。
それを理解しながら飲んだとあれば、それは男たちのレイプ願望に合意の意を示したに等しい。
「……うん、あー、これは、凄いね。今すぐ、ぐっちゃぐちゃに掻き回してほしいかも」
僕と彼ら、そのどちらの反応にも気に留めることなく、渚さんは深く息を吐く。
恐ろしいほど艶めかしく、顔を紅潮させて、桃色の吐息を一つ。
有り余る性的衝動にぶるりと震えて、こちらに流し目を向ける。
──……っ!♡
その目線に、彼女よりも僕の方が、強く震えを起こす。
それは、今までの渚さんのような、理知的な光を宿しながら、春風のように何物にも縛られない、温かくも優しげな瞳ではない。
身震いするような淫蕩さや、一目見て「食われる」と思わざるを得ない、自分より遥かに上位の存在だと確信してしまう強者のオーラがそこにはある。
普段の雲のような掴めなさから一変して、『ここにこの世で最もお前を悦ばせられる存在が居る、だからお前は私に魅了され尽くして、全てを捧げて、私に抱いてもらい、依存して、堕ちろ』、と。
そう言わんばかりの、傾国の娼婦ですら唸るような絶対的強さと気高さ、そして決して抗えない雌性を、フェロモンと共に撒き散らしている。
れろぉり、と肉厚な舌で、これまた厚く淫らな唇をなめずる彼女。
淫魔と言って遜色ない、むしろ淫魔すら凌ぐようなエロスをこうもさらけ出されては、男も女も関係ない。
渚さんを抱く。
媚薬を自ら飲み干した、あの淫乱そのものの身体をした、最高の抱き心地の雌を。
どうしたって、例え性器が不能であろうとそう決意せざるを得ない、渚さんという女がそこに居るのだ。
男たちは、フェロモンの匂いにつられる虫のように、ふらふらと惹き寄せられる。
はち切れるほどに膨れ上がった期待と、同じくはち切れそうな性器と共に。
──う、くそ……
とにかく渚さんを庇うように、僕が身体で彼女の前に立ちはだかるが、もう彼らは、渚さんに受け入れられる事を疑いもしていない。
彼女以外の不純物は目にも入らず、僕を片手でぐいと押しのけると、ただ彼女に手を伸ばす。
──渚、さん……!
青ざめて、彼女の名を呼ぶ。
当たり前の事だが、僕は渚さんにとっては友達とすら思われていない、ましてや彼氏でも何でもない存在だ。
しかし、彼女があんな奴らに汚されると考えると、巨大鉄球を後頭部に振り落としたような、血の気が引くほど強い衝撃で脳内が真っ白になる。
しかし、無情にも男は止まらない。
まずはそのたわわな胸、明らかに100cmの大台を悠々と超す巨大な肉塊を、手のひらから溢すように揉み潰そうと、手を伸ばす。
今から味わえる、無上の肉感を思いながら、その手が徐々に近づいて。
その手を、渚さんは、じっと見つめる。
媚薬の淫気にあてられて、性器や性感帯への刺激を縋ってでも求める、今の渚さん。
女なら、例え男性という男性に対して嫌悪や憎悪を撒き散らし、男性は全員性犯罪者予備軍であるから人権を奪った挙句去勢して牢屋にぶち込め、なんて喚く極端なミサンドリーであっても、男に土下座すらして男根を求めるほどのセックスドラッグを丸々一錠摂取した、渚さんは。
男の手を優しく取って、にっこりと笑って。
「──ぐあっ!?」
「汚い手で、私に触らないでくれるかな?」
逆側に、腕ごと捻り上げた。
めしりと、音がするほど。
──え……?
全員の、時が止まる。
男の手を、拒んだ。
それは絶対にあり得ない、それこそ夏場の乾いたプランターの土が水を拒むような、抗えるはずがないものなのだ。
けれど、渚さんは望んでやまないはずの男の愛撫に目もくれず、むしろそれを自ら拒絶した。
男は痛みにうずくまり、渚さんを睨みつける。
しかし、その目にあったのは怒りというよりは、困惑。
何故、どうして、という思いであった。
そんな男に対して、渚さんは冷たい目線で、見下ろして言う。
「キミたちみたいな薄汚い奴らは、同じようなつまらない下衆と乳繰り合ってなよ。私はキミみたいなのとセックスするのはまっぴら御免だからさ」
先程までの表情とは一変し、感情がすっかり抜け落ちたかのような表情。
侮蔑や嫌悪を通り越して、一切の興味を失ったのか、もはやそちらを向きもせず、淡々と語る。
それに対して、男たちは悔しそうに、あるいは焦燥しているかのように押し黙る。
渚さんが思い通りにならなかったからか、あるいはあれだけ媚びるように豊かで淫らな渚さんの身体に触れられなかったからか。
しばし無言で、顔を見合わせた。
しかし、そうしていたのも束の間、男たちは顔を見合わせたまま可笑しそうに笑い、勝ち誇ったように声を荒らげる。
「ハハハ、何だよ、お高くとまりやがってよ!」
「大人しく俺たちに従ってりゃいいのによ、抵抗するんなら痛い目見せて言うこと聞かせなきゃなぁ!」
「ああ、店員なら呼んでも無駄よ、この店はアタシらとお友達だから!」
ゲラゲラと下品に笑う男たち。
こちらの抵抗が無意味である事を確信し、鼻の下を伸ばして、雌を手籠めにする愉悦を今か今かと待ち望む。
彼らは数の利からか、あるいは渚さんの性差による膂力、そのおまけにくっ付いている僕の弱さを知っているからか、ほんの少しも逃げられる心配などしていない様子だ。
その態度が癪に障るが、しかし、事実として、僕らを囲む男たちから抵抗しながら逃げおおせるというのは全く現実的ではない。
──渚さん……!
振り返って、渚さんの名前を呼ぶ。
とにかく僕はどうなったっていいから、貴方だけでも逃げてくれ。
貴方のよく切れる頭で、僕をどう利用したっていいから。
そんな意味を込めて、必死に目線で伝えるが、当の渚さんと言えば。
「んー?どしたの、そんな顔して?お腹でも痛いの?」
じゃあ、この余ったカクテルも飲んじゃうね、なんて惚けた事を言いながら、もう一つのグラスを揺らしている。
その様子を見た男たちは、渚さんをまだ状況を全く理解していないバカ女、あるいは分かっていながら俺達を煽る淫乱だ、なんて囃し立てながら、袖を捲って襲い掛かる。
──くそ、近づくな……!
いかにもケンカ慣れしたファイティングポーズを取る男たちに、武者震いでなく震えを起こす手を押さえつけ、僕も奴らに合わせて拳を握った。
端から勝とうなどとは思わない。
ただ、渚さんが逃げられる時間を、ちょっとでも稼ぐ。
そんな決意を抱きながら、奴等に相対した。
しかし、そんな決意は、呆気なく崩される。
後ろから腕を引かれ、椅子に座らされてしまったのだ。
そう──それは、他でもない、渚さんの手によって。
──渚、さん……?
思わず振り返り、彼女の顔を見る。
その目は、少しとろんと蕩けつつ、しかし。
──確かに、獰猛な鷲のような。
奴らの驕りきって油断した目とは違う、冷酷かつ無慈悲な狩人じみた、絶対的な力量差から生まれる、絶対的王者の光があった。
「危ないよ、座ってなきゃ」
渚さんは、手に持ったカクテルグラスを、つ、と優雅に傾ける。
一頻り口の中で転がしてからそれを飲み干すと、ふ、と息を短く吐き、振り返らずグラスをこちらに渡した。
そのまま、肩にかけたバッグからヘッドフォンを取り出し、キャスケットの上から被り。
「あ?何だ?ヤる気かよ?」
「ふふ、冗談でしょ?あれだけクスリ飲んでて力が入ると思ってるの?」
「立ってるのもフラついてキツいんじゃねえの?安心しろよ、俺が今楽にしてやるからさ」
プレーヤーから音楽を流し、足を肩幅に開いて、男に対して斜めに構える。
手はだらりとリラックスさせて垂れ下げて、ごく自然に。
──危ないですよ、逃げましょうよ。
本来ならば、そんな事を言うべきなのだと思う。
けれど、目の前で悠然と立つ渚さんを、その威容をみると、そんな言葉も引っ込んでしまう。
最早逃げようなんて思いもせず、ただ彼女に熱視線を送る。
渚さんは、振り返って薄く微笑み、少々恰好を付けたように。
「……じゃあ、特等席で見せてあげようかな。キミの分のお酒は私が飲んじゃったけど、おつまみでも飲みながら楽しんでね」
「舐めやがって、このアマ!」
弾かれたように、掴み掛かる男。
彼女はその手を取り──男を悠々と上回る膂力で、体ごと捻じ伏せる。
「うおっ……!?」
どよめく室内。
絶対的なアドバンテージだと思われていた、単純な腕力で、負けた。
しかも、媚薬を飲んで力が入らないであろう女に。
相対する渚さんは、それが当然、分かり切った事であるという様子で、優しく裾を叩く。
あくまでもその自然体な構えを解くことなく、ゆっくりとキャスケットを被り直して。
「さあ、来なよ。最後にちょっとだけ、遊んであげる」
──そこからは、圧巻だった。
ワルツでも踊るような動きで、男たちの攻撃をことごとくいなしては、軽く足を払うなり、拳を逸らせて後ろの男に当てるなり、あるいは相手の勢いを利用して鳩尾に肘をめり込ませるなり。
あくまでも優美なスタンスを崩すことなく、しかしその動きは明らかに男たちより力強い。
身のこなし、技量などは言うまでもなく、まるで少し先の未来が見えているかのように、拳が、足が当たらない。
囲まれている事を全く問題にせず、むしろ男たちの攻撃同士をぶつけ合わせたりして、疲労やダメージが溜まっていくのは奴等の方ばかり。
全くもって、相手にならない。
素人目に見たってそれは明らかなほどの力量差は、戦っている彼らにとっては絶望的なほどに如実なものなのだろう。
どう考えたって、いや、考えるまでもなく、ちょっと押せば組み伏せられるはずの、細っこい雌に、自らのアイデンティティ、唯一の雄としての魅力であるはずのケンカで、負ける。
彼らの猛攻を、つまらないとばかりにあくび交じりに受け流すその様は、彼らのプライドを粉々に打ち砕き、絶望させるには全く十分なものだった。
男たちは、最初は威勢よく、顔をニヤつかせながら渚さんに勢いよく掴みかかっていた。
なるべくその珠のような柔肌を傷つけないように、殴ろうとはしなかった。
それは、言ってみれば男故の覆しがたい性差、今まで行ってきた鍛錬や殴り合いの実績からなる驕りとも言える。
実際に、男たちの筋肉のついた体や、ケンカ慣れした動きなどは、それなりに真面目に鍛えていたからこそのものだったのだろう。
しかし、その全ては、目の前の細っこい雌に、容易く打ち砕かれる。
女をモノにするために、男にマウントを取るために、必死に磨き上げた腕っぷしは、小馬鹿にするようにいなされた。
それは、男からしてみれば、自分という存在を全否定されたのと同じように思えたのかも知れない。
「ん……もう終わり?」
そうして、結局のところ。
渚さんは、ほんの少しも傷ついていないどころか、ほんの少しの息切れだって起こしていない。
囲んでレイプするなどと息巻いていた男たちは、床に膝をついて肩で息をしていると言うのに。
「うーん、キミにちょっと格好いいところでも見せられたらな、なんて思ったんだけど、これじゃ見世物としても三流がいいところだね」
女たちは、隅で小さく縮こまっている。
元々男たちのおこぼれを貰う予定だったのだろう、奴らが敵わないと分かった途端、騒ぎ立てるのをやめて静かになってしまった。
男は床に倒れ伏し、女は大人しく黙りこくる。
先程まであれほど粋がって、有頂天な傲慢さを見せていた、彼らが。
どの要素を抜き出したって、天地がひっくり返っても優勢は変わらないと、そう固く確信を抱いていた彼らは、ただ渚さんが常軌を逸して強かったというたった一つのイレギュラーのせいで、ここまでこっぴどく叩き潰された。
その光景を見て、彼女は大きくため息を吐いて、僕の隣に座り直す。
──何と声をかければいいのだろうか。
あまりの光景に打ちのめされて、声が出ない。
「んー……退屈だったね。疼きを晴らすどころか、よっぽど鬱憤が溜まってしまったな」
渚さんは、僕の方をじっと見つめる。
──しかし、何故、渚さんはここに戻ってきたのだろう。
奴らを倒して無力化したのなら、そのまま帰ってしまえばいいじゃないですか。
そう思うが、声が出ない。
幾分か紅潮して、尚且つ気怠さを感じさせる、ダウナーな耽美さ、淫靡さをこれでもかと詰めた彼女の表情にノックアウトされ、張り付いたように声帯が動かない。
「こういう品も配慮も倫理もない人間はいつもそうなんだ、下卑た性欲を無理やりぶつけようとする癖に……私を少しも満足させることも無いほど、つまらない」
ちら、と侮蔑混じりの目が眼下に向く。
射殺すような目線で、一瞬全員を視界に捉えた後は、すぐに興味を無くして僕の方に向き直る。
「あんなに自信満々に、不愉快な欲望を浴びせてモノにしようとするのに、欠伸が出るほど退屈なんだ。せめて、その欲で私を楽しませてくれるなら、喜んで誘いに乗ると言うのにね」
すり、とその指が僕の顎下を撫でる。
いやに猥雑に、蛇腹が絡むような緻密さで。
「けれど、何故か私に欲を向ける人間は、ベルトコンベアで流れてくるものを眺めることよりも予想通りで陳腐なんだよ、見た目も、その欲望の中身すらもね」
しんしんと静かに、僕を透かして後ろ側、男たちへの蔑視を大いに含んだ微笑みを絶やさずに、清流が流れるが如く。
早瀬さんは頬杖をつき、ただ語る。
「だからね、私は、私に言い寄る輩が好きじゃない……ううん、嫌いなんだ」
男たちは、何も言い返さない。
よほど先程の蹂躙劇が身体に堪えたのか、あるいは何も言えないほど自尊心がズタズタにされたのか。
黙って渚さんの侮蔑を受け止めている。
──これは、彼らだけでなく、僕にも同じように当てはまる事ではないだろうか。
彼らほど腐ってはいないが、それでも僕は凡百の、つまらなくて予想通りの人間と言えないだろうか。
そう思うのだが、渚さんの行動がそうは思わせてくれない。
する、と渚さんの手が僕の後頭部に伸びる。
あまりに自然で慣れた動きで、反応すら出来なかった。
頭ごと抱くような動きに、当然だが渚さんの身体と僕の顔面の距離が近くなる。
卒倒してしまいそうになるほど、蠱惑的な肢体が、文字通り目と鼻の先に。
「そんな奴等にはさ、女をおかしくする媚薬で狂いそうなほど発情したって、指一本触れさせたくないんだ」
頭を抱かれたまま、彼女の指先が、僕の顎を持ち上げた。
──ああ、逃げ場がないなぁ。
なんて、彼女の双眼いっぱいに僕の顔だけが映っているという状況に現実味がなさ過ぎて、漠然と考える。
例えば、もしも彼女が、僕にキスなんてしようとしたら。
全く抵抗できないまま、奪われるだろう、唇を。
まあ、全く有り得ない、可能性のない事だけれど。
──そう、有り得ない事だ。
彼女と僕が、口づけをするなんて。
けれど、何故だろうか。
「つまらなかったり、私の興味をそそらない奴は、ほんの一瞬も触れさせない。さっきちょっと力の差を見せてあげるために組み合ってあげたのは、かなりの大サービスだったんだよ。もっとも、その男は床に這いつくばってるようだけど」
──近い。
僕は後ろに引こうとしているのに、渚さんがやけに前のめりになって、鼻と鼻がくっつきそうなほど、近い。
その瞳に吸い込まれそうなほど、唇に吸い寄せられそうなほど。
渚さんは、近づく。
際限なく、これ以上は彼女と僕の間に隙間が無くなってしまうというくらい。
ぺろり、と渚さんは舌で唇を濡らす。
てらてらと潤いに溢れ、むちゅむちゅと艶やかで肉の乗った唇を。
──あれ、って言うか、僕は渚さんに触れてる……向こうから触れられてる……
なんて、今更、ふと気が付いた。
それが意味するところなんて、初めから一つだったのかも知れない。
「……だから、キミは特別」
あーん、と彼女は控えめに口を開ける。
捕食する直前の獣のように、その仕草を、僕の目の前で。
──え、あ……?
混乱して頭を真っ白にする僕と、一切の躊躇なく迫る彼女。
僕が一切逃げようとしないのを確認して、ふっと微笑んでから。
むちゅう、ちゅ……♡
──!?!?!?
熱く、濃厚なベーゼを、一つ、二つ。
見せつけるように、格別に濃く。
唇を、しっとりとねっとりと、深く柔肉がめり込むほどに押し付けて。
感触を味わって、その目は満足げに歪んでいた。
その一方で、僕はと言うと。
──柔らかい、肉厚、って言うか、渚さんと、今……!?
目を白黒させて、その快さに戸惑うしかない。
眼前に広がる彼女の顔、そして唇に広がる異様なまでの心地よさ、中毒性。
それが意味する事なんて、もう渚さんとキスしているということ以外存在しない。
しかし、その状況のあり得なさに、どうしても脳が理解を拒んでしまう。
──ぷは。
一体どれほどの時間唇を合わせていただろうか。
一分程度、いやもっと短かっただろう。
けれど、僕にとっては一分にも一時間にも思えていた。
しかし、それでも渚さんとのキスが名残惜しく、思わず離れる唇を追ってしまう。
そんな僕を、渚さんは優しく後頭部を撫でて、認めてくれる。
恋人にするかのような甘い態度に、どうしても脳が蕩けてしまうような多幸感を覚えてしまう。
もう、行動が唐突すぎるとか、そんな事はどうだっていい。
ただ、僕は渚さんに夢中になってしまう。
当たり前だろう、渚さんにキスされて、メロメロにならない人間なんて地球上のどこを探したって存在しない。
「……うん、いいね。かわいいじゃん」
すり、すり、と手のひらが頭を撫でつける。
ひたすら甘く、どこまでも肯定するような手つきに、口ぶり。
奴らを見るのとは全く違う、どこか熱と湿り気を帯びた目線に、腰が浮く。
乞い願うような、縋るような目線が、集まる。
あと一歩、ほんの少しでも進めば天国に行けるのに、それを檻越しに見せつけられるしかない囚人のような、そんな目線。
それを、渚さんは目だけで一蹴し、また僕の頭を撫でる。
もう、流石に、自覚するしかない。
口づけされて、頭を撫でられて、好ましげな言葉をかけられて。
「私に……分かりやすい欲望や攻撃を向ける人間は、好きじゃない。例えば、そこに転がってるような人間はね」
ぐっ、と。
力強く、けれど紳士的に。
渚さんは、僕の肩を抱き寄せる。
「けど……キミは違う」
渚さんの細身な、しかし儚げではない肩に、僕の頭を乗せられる。
そうなれば、彼女の女性らしすぎるほど女性らしい、柔らかな体と全身で密着することになるのは必然だ。
発情しているからか高めな体温、腕に当たってむんにゅりと、意味が分からないほど滑らかかつ柔らかに潰れる乳肉。
それに、つんと鼻を刺すほど甘い、雌臭いとしか形容することができない饐えた匂い。
ほんの一、二時間も前、この居酒屋に来た彼女が漂わせていた、柑橘を思わせるような爽やかな匂いはどこにもなく、今はむっと蒸れてこってりと甘ったるい淫臭ばかりが鼻腔を満たしている。
渚さんは、僕の肩に手を回し、少し体を傾けて、僕の耳に口を近づける。
ふぅ、と熱く湿った吐息が、僕の耳を濡らした。
身震いを止められないほどの性的なぞくつきに、脳がますます液状化を止められない。
もう、どれほど情けない姿を晒しているのだろう。
顔を真っ赤にして、涙目になって、極度の緊張と興奮から体を震わせて。
どんなに慈悲深い女性からも幻滅されそうな姿を、渚さんに正面からじろじろと眺められる。
「……ふふっ」
ひとしきり僕を観察した渚さんは、ほころぶように笑いを漏らした。
けれど、それは嘲りからではなく、心から愛おしそうな声で。
それから、ひとしきり、喉を撫でられる。
ギャングの親玉が愛猫にそうするように、絶対的な力量差、手が届かないほど上位の存在に愛玩される喜びを植え付けられる。
もう、溶けてしまう、全身。
耐えられない、何もかもが。
目を回し、ひたすら身を固くする僕に、渚さんはますます笑みを深める。
にまにまと好色げに、感情が溢れそうなほど口角を上げて、渚さんは僕の耳にぴっとりと唇を付けた。
「……ねぇ、ホテル、行こうか」
──っっっ!?!?!?
ぞわりと、背筋が粟立つ。
ペニスから先走りをぴゅっと漏らすほど、いや、先走りで済んだのが奇跡と言えるほど艶めかしい囁き。
鼓膜にべっとりと張り付いて、脳を直接揺さぶる至近距離の誘惑に、腰すら震えてしまう。
「ね……キミもさ、私のことえっちな目で見てたよね」
身体を反らして逃げようとする僕を、渚さんは決して逃がさない。
肩を抱いて、より強く、耳に濃厚なベーゼをするように。
「ああ、責めているんじゃないんだ……。ただ、これは、確認しているだけだよ」
喉元を、かりかりと爪で緩く掻かれる。
猫や犬をじゃらすような手つきは、僕が彼女のモノであると錯覚させる。
「キミも、私とシたい……ホテルでしっぽりと愛し合いたい、私のカラダでめちゃくちゃに射精したいって思ってるか……その、確認」
悔やむような歯軋りの音がした、ような、気がする。
あるいは、嘆くようなため息の音。
恐らくは、向こうで指を咥えてこちらを眺めている奴らの音なのだろうが、そのほとんどは自分の心臓の音にかき消されてしまう。
「ほら……頷くなり、横に振るなりしてみなよ……」
左右から、僕を慣れさせないようにだろうか、渚さんは交互に囁く。
ぞくぞく、ぞくぞくと、寒気がするほどの興奮が、おびただしい量の脳内麻薬と共に駆け巡る。
「でないと……そのまま連れ去って……完全合意持ち帰りレイプ……してしまうよ?いいの?」
ぐ、と腰を掴まれる。
ギラつき、据わった目を向けて、震える腰骨を。
──多分、いや、絶対に、渚さんは本気だ。
これ、抵抗しないと、抱かれる。めちゃくちゃにされる。
けれど、動けない。
石膏で固められたかのように、首がうんともすんとも動かない。
「……じゃあ、嫌なら抵抗してね。しないなら、連れてくから」
ぐい、と腰に回された手で引き上げられ、体が持ち上げられる。
軽々と、まるで小さな子供を立たせるかのように。
先程男たちを返り討ちにしていたことからも知っていたが、それにしても、その細腕からは考えられない力だ。
間違いなく、彼女に本気で襲われたら、勝てない。
男たちにすら勝てなかったのに、それらを纏めて手玉に取る彼女になんて、勝てるはずがない。
そう考えると──どうしても、胸の奥が疼く。
「腰、ふらふらしてるね。ふふ、まるで立場が逆みたいだ。キミが媚薬を飲まされてて、私がキミにクスリを盛ったレイプ魔……」
へたり込みそうになる腰をなんとか支えてもらい、よたよたと歩く。
渚さんが言う通り、本来は逆。
僕が彼女を介助しなきゃいけないのに、僕が彼女に支えられている。
そんな状況を情けないとすら思えず、脳内を駆け巡るのは──渚さんの話。
性に奔放で、むしろ女性を快楽に堕としてしまうようなセックス慣れした男が、技巧なんて一つも使わないで壊された。
渚さんの女体は、それほどに、おぞましいほどに、破滅的に気持ちいい。
そんな渚さんが、僕を──抱くと言っている。
男を、靴下越しの脚一本で、性癖も何もかもを捻じ曲げた渚さんが。
それなのに、童貞で女性経験が一つもない僕が、ただで済む訳がない。
──壊される、徹底的に、人生がめちゃくちゃになるまで。
恐ろしい。肝が冷える。全身が竦み上がる。
けれど、それ以上に。
──絶対、気持ちいい……♡♡♡
渚さんという極上の女性に、愛情を持って壊される。
それがどれほどの快楽か。幸福か。
それは、きっと僕の些末な想像力では1%も夢想できないほどで。
「……ぜんぜん、抵抗、しないね」
ふー♡ふー♡と、渚さんの服の裾をきゅっと握って、ただ俯く。
誰が見たって、そこに否定のニュアンスがあるとは思わないだろう。
ふらつく僕の腰を持って、渚さんは出口へと向かった。
「あ……」
それを地べたからただ眺め、とにかく負の感情を込めた目で睨む男。
小声を漏らし、必死に縋ろうと、渚さんの足を掴もうとする。
しかし。
「……何、邪魔しないでよ」
渚さんはひたすら冷たく、冷酷に、無慈悲に、あしらうだけだ。
「私は今から、この子一人だけと、ホテルでセックスするの。この子だけに、胸を吸わせたり、お尻を揉ませたり、望むままに私の身体を使わせて、愛してあげるの」
渚さんは、僕を抱いたまま、ゆっくりと見せつけるように、頬にキスを落とした。
その光景に、男は、男たちは、絶望的な表情を浮かべる。
本当は、自分たちがそうなるはずだったのに。
自分たちが、そのためだけに準備をしたのに、しかしその非合法的な準備のために、実った果実は冴えない男に全て奪われてしまう。
けれど、逆に言えば、僕は。
天女のような肉体を抱くという権利、極楽にも昇るような望外の幸福を、独り占め。
あの男たちになす術もなく摘み取られていたかも知れないものを、僕だけが、みっちりと、とことん味わえる。
他の誰が、どれほどの地位を手に入れたって、どれほどの金を積んだって、絶対に手に入らないこの権利を。
彼女の気まぐれで、何の対価も与えられず、ぽんと与えられたのだ。
渚さんが見下ろしている、地面に這いつくばった奴等には、絶対に与えられない権利が、僕だけに。
「キミたちみたいなクズは、キミたち同士でクスリでも盛って脅し合ってサカってなよ」
目線という目線を無視しきって、渚さんは、僕を抱いたまま、個室を後にする。
最後に、肩越しに振り返って言葉を残しながら。
「……警察には通報しないであげる。というより、そこまでの興味も無いし。その代わり、二度と近づかないでね」
そう言い残すと、渚さんはゆったりと僕の髪を手櫛で解いて。
「フフ……じゃあ、行こうか」
僕を引き寄せたまま、それをひけらかすように店を出た。
腰を卑猥にすり撫でて、今からこの雄と交尾する、と手つきで主張しながら。
その後に残ったのは、放心した男たちの静寂。
声にもならない後悔を噛み締めて、涙を飲む音だけが残された。
「結局、あんまり飲めなかったな。いっぱいお酒飲むつもりだったんだけど」
多くの人が行き交う中で、店の軒先に垂れ下がった巨大提灯──中身はもちろん電球──を見ながら、渚さんは呟いた。
電飾で彩られた歓楽街は、会社帰りのサラリーマンや学生でごった返しており、居酒屋の中ほどではないものの、賑やかな喧騒がある。
それもそのはず、ちらりと腕の時計を見れば現在時刻はもう八時を回っており、今は酒飲みにとってはゴールデンタイムと言える時間だ。
駅近くのこの通りは、見渡す限りずらりと飲食店が並んでおり、そのほとんどが酒を飲むことを主目的にした店となっている。
ところどころには飲みの締めに寄るであろうラーメン屋などもあるが、圧倒的に多いのは居酒屋だ。
オフィス街と住宅街のちょうど間にあるこの場所は、一杯引っかけたいサラリーマンが寄るのにちょうどいいのだろう。
実際に、今ここを歩いているのは、ほとんどがスーツを着た人間だ。
彼らは小太りだったり、あるいは細身だったり。
赤ら顔をしていたり、あるいは白い顔をしていたり。
同じような服装ではあるが、老若男女、千差万別な人間がここを闊歩している。
そして、それら様々な人間たち。
彼らには、たった一つの共通項が存在する。
「んー……やっぱり見られるね」
それは、目線。
この世に二つとない美爆乳をゆさゆさと揺らし、くねりくねりとセックスの象徴のような豊満な尻をたぷたぷ振りたくる渚さんの動きは、果たして無意識なのだろうか。
そんな欲情を煽って仕方ないクソエロボディだけでも目を集めるというのに、彼女ときたら殺人的なほど顔がいい。
酒に酔って理性の緩まった人間が、更に人だかりの集団心理に掉させられれば、性欲の籠った目を向けるのも仕方ない事だろう。
そして、その目は当然、渚さんに連れ添って歩いている僕にも向く。
明らかに親密な情を向けられているように腰を抱かれエスコートされている僕に突き刺さる、嫉妬や羨望の感情。
顔を歪めてこちらをじっとりと睨む彼ら彼女らは、分かりやすすぎるほど明らかな性的期待を抱いていた。
酸っぱい葡萄の感情も湧かないほど、渚さんの身体の性的魅力、もっと言えば乳肉や尻肉の熟れ具合は、赤熱したマグマを見ればそれを熱いものだと直感で理解できるように、見ただけで確信できるものだ。
あの太く柔らかな脚に、スイカほどもある爆乳に、むっちりとズボンをぱっつんぱつんに押し上げている尻に、ペニスを挿し込めばどれほど気持ちよく射精できるだろう。
あの麗しく端正な顔で、艶やかなワインレッドの唇で、シミ一つないパールホワイトの肌で、情熱的な愛を囁かれながら秘所を擦られたら、彼女に生殖能力なんてありもしない事は明白だと分かっていても子宮を屈服させずにはいられない。
立場も名前すらも知らないが、彼女のためならば人生の全てを捧げ、女王様に傅く奴隷にだって成り下がる、いや、奴隷にならせていただきたい。その許可が欲しい。
それほどに、喉から手が出るほどその立場が欲しいというのに。
そんな彼女に腰を抱かれ、あまつさえ捕食していただけるというこの世で最も幸運なオスがそこに居る。
自分たちに、既に彼女のお気に入りの先約が居ることによって、少なくとも今は希望がない事を見せつけられては、意識せずとも顔が怨嗟に歪んでしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
しかし、いくらその気持ちが理解できるとはいえ。
あの男たちほどではないものの、しかしあの男たちとは比べ物にならない圧倒的な数の人間にきつい負の感情を向けられて、少しだけ優越感に浸るとともに──恐怖を感じてしまう。
「……ちょっと路地裏の、人の少ない道を行こうか」
渚さんは、そんな目から守るように一際強く僕を抱き寄せ、囁いた。
その横顔を見て、僕ははっとする。
いくら無事だったとは言え、渚さんはこれよりも苛烈で、もっと直接的に危害や恐怖を与えられる犯罪に巻き込まれていたのだ。
それも、サカった猿のごとく下卑た性欲を丸出しにした集団が、薬を盛った挙句に暴力で押さえつけて犯そうとしたという、最も悪意に満ちた欲望を剥き出しにして襲われたという悪辣な事件。
そんなものの被害にあったのだから、本来そういう目線に恐怖心を抱くのは渚さんのはずなのに、かえって僕は彼女に気を使われて、あまつさえ庇われ守られている。
──あの、渚さんこそ、大丈夫ですか?
思えば、さっきもそうだった。
僕一人では何も出来ないくせに一丁前に男たちに抵抗して、それを渚さんに守ってもらって。
そして、更にこうして気丈に振舞っている渚さんこそが内心で深く傷ついていて、それに気づけずまた黙って守られていたとしたら。
僕はなんて情けなくてどうしようもないんだと、絶対に後悔するだろう。
──あんな事があった後ですし、その、気分が優れなかったりしたら……
だから、もし自分に何かできる事があれば、手伝いたい。
そう思い、声をかけたのだが。
──え、と……
当の渚さんは、その言葉に触発されて、笑顔の仮面を外して怯えを露わにしたり、あるいは怒りや悲しみを見せてくれたり──などという事は全くなく。
むしろ、喜色満面。
大好物のごちそうを前にしたような、あるいは格別にイイ女を抱く前の、何人もの人間を食ってきた肉食プレイボーイのような顔つきで。
──あの、ちょっと……?
辛抱たまらないといった様子で、じっくりと舌なめずりをする渚さん。
急に何か、狩猟本能のようなもののスイッチを入れてしまったかのような、踏んではいけない地雷を踏んだような感覚に襲われ、ネガティブな視線を向けられるのとはまた違うベクトルの恐怖に後ずさろうとする。
けれど、腰は相変わらず渚さんの手に抱かれたままで、ちっとも逃げられない。
そんな僕に、渚さんは実に愉快そうな表情を浮かべ、暴君が捧げものの宝物を鷲掴むように、僕の顎を乱雑に掴んで、上向かせる。
僕よりも幾分か高い渚さんの長身から見下ろされたうえ、その作り物じみて美しい顔と顔を合わせられ、気圧されてしまう。
「ああ、本当に、キミったらひどいなぁ……。全くキミは、私よりよっぽど、悪魔だよ……」
熱に浮かされ、うわごとを呟くように、渚さんは誰に言うでもなく独りごちる。
何かに取り付かれたかのような狂気的なまでの笑みを浮かべ、静かに呼吸を乱す渚さんは、明らかに──発情していた。
顔を上気させ、息を荒らげ、いつもの余裕たっぷりな態度が嘘のような荒々しい手つきで、こちらを逃がさないように脚まで絡められてしまう。
「…………」
──あの、ちょっと……?
渚さんはそのまま腕を引っ張り、黙って歩き出す。
その手つきは渚さんらしくないような──と言えるほどの付き合いはまだ無いのだけれど──思わず怖気づいてしまうほど有無を言わせない強引なもので。
──どう、しましたか……?
その様子に、何か怒らせてしまったのかと思い声をかけるも、返事はちっとも返ってこない。
渚さんはただ一心不乱に正面を向き、何かを探るように目を左右に動かしているだけだ。
──やはり余計なお世話だったかな、僕なんかに心配なんてされたくなかったのかな。
なんて不安を抱いてしまうが、けれどその懸念は他でもない渚さんによって既に払拭されている。
それは、その目付き。
人間にもしも発情期があったなら、その時はこういう目付きになるのだろうというほど完璧に発情しきった、ハートマークすら浮かんだ、目。
それを爛々と光らせながら、ずかずかと人波を突破するように、進む。
一刻も早く目的地にたどり着きたいと言わんばかりに、走り出す一歩手前くらいの早歩きの歩調で。
──僕は、どこに連れて行かれるのだろう。
ほぼ拉致されているくらい腕ずくに手を引かれて、何やら汗が噴き出す。
困惑して、勘ぐって、期待して、冷や汗と興奮を半分ずつにした汗を。
沈黙したまま、されるがままに引っ張られ続ける。
緊張からか恐怖からか、内心では目を回すほど焦りながら。
そうして押し黙っていると、渚さんは突然、直角に進む方向を変える。
──何もない、壁の方に向かって。
繁華街の端の、店の四半分ほどはシャッターの降りた、少しさびれた場所。
そのまた閉まった店と店の隙間、ちょうど全く何もないそこへ、渚さんは迷わず突き進む。
止める暇もないほど戸惑いのない動きに、かえって僕が戸惑ってしまい、抵抗する時間も無かった。
連れられるがままに体を壁と壁の隙間に潜らせて、更にぐいぐいと奥へと進む。
──いよいよ、僕は狼狽してしまう。
何故ならば、ここには正真正銘何もない。
隠れ家的な飲み屋も無ければ、野良猫のたまり場でもない。
それとも、ただ狭くて入り組んだ道とすら言えないこの路地裏を抜ければ、何かあるのだろうか。
そう思ったが、渚さんは道半ばで立ち止まる。
ここが目的地なのかと辺りを見回すが、ここにあるものと言えば壁と室外機くらいで、店の裏口すら見当たらない。
けれど、渚さんは、それに満足しているようで、にやりと不敵に笑っている。
全くもって都合がいい、ここでなければいけない。
そんなニュアンスが、その笑みから伺える。
──あの、何故、こんな場所に……
あまりに不思議で、とうとう僕は直接渚さんに尋ねた。
けれど、彼女は何も言わない。
代わりに、その瞳が。
下手な言葉よりよっぽど雄弁に、語っていた。
──追い詰めた。
あ、と。
言葉が漏れる。
ああ、そうだ、こんなところに連れてくる意味なんて。
考えるまでもなく、一つしかないじゃないか。
「今更、気が付いたのかい?」
頭の横を掠めて、勢いよく渚さんの両手が壁につく。
それは所謂、両手壁ドンの体勢。
「本っ……当に、愚かだね、キミは……」
正面からは渚さんに見下ろされ、後ろは壁。
横は渚さんの腕に逃げ道を塞がれ、逃げ場がない。
渚さんから、刀の切っ先を向けられるように、鋭い眼光で刺し貫かれる。
あまりの威圧感、あまりの圧迫感に、腰がへたり込んでしまう。
「おっと……怖気づいたのかな?フフ……」
ずるずると、壁にもたれかけた腰をずり下げる。
そのまま地面に座り込んでしまうかと思ったが、それすらも叶わない。
股の間に差し込まれた彼女の膝が、強制的に僕を起立状態にさせる。
「ああ、こんなに苛立ってしまうなんて、いつぶりかな……。もしかしたら、生まれて初めてかもしれないね……」
逃げられない。
もう、どうしたって、どう動いたって。
詰んでしまった駒のように、ここから一歩も動けない。
「何だい?そんなに怯えた顔をして……。これ以上私を苛立たせるつもりかい?」
顔を近づけた渚さんが、首筋をれろぉり♡と一舐めする。
じっとりと、獲物の味を確かめるように。
「こうなったのも、キミが悪いんじゃあないか。キミが、こんなにも、こんなにも私を……」
何故、どうして、急に。
そうして混乱するとともに、頭の中の冷静な部分が既視感を抱く。
──あれ、この状況、どこかで……。
こんな、正気を失った渚さんにどうしようもなく追い詰められて、狩りをする獣のように容赦なく襲われるなんて、絶対に一度たりともあり得ない状況だ。
夢か妄想か、それに準ずる何かで見ただけじゃないのかとも思うが、しかしこれは絶対に経験していると言い切れる。
そう、確か、これは。
忘れもしない、忘れられるわけがない。
「誘惑、したんだから……♡」
居酒屋を出る直前、薬を飲まされた渚さんが。
僕に、キスを迫る直前の──。
「ん、ぁ……♡」
──あ、ちょ、待っ……!
むっちゅぅぅぅ……♡♡♡
──っっっ……!!!♡♡♡