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冬コミ進捗.4(事情により公開範囲が前回の続きではありません) (Pixiv Fanbox)

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──夢を、見ている。

桜の花が盛りに咲いた、絵空事のように穏やかな、つい一ヶ月ほど前の入学式の日──つまり、恣紫と出会ったあの日の出来事が、また脳内で再生されている。

幾度となく、目を閉じるたびに見る夢だった。

強い閃光のように、瞼の裏に焼き付いて離れない、あの時の情景が、繰り返されている。

そう、あの日の僕は、不安と期待が入り交じった、浮き足立つような気分で、これから通うことになる大学の、入学式への道のりを歩いていたのだ。

慣れ親しんだ地元を離れ、一人アパートを借り、生まれて初めて誰もいない家で眠った、その次の日。

朝起きても、いつものようにご飯を作ってくれる母親も、いつも僕が学校に向かうのと同じ時間に、並んで出勤する父親もおらず、向かう大学には見知った友人の一人さえいない。

そんな落ち着かない気分のまま、まだ硬いままのスーツと革靴のタグを切り、袖を通すその時に、ああ、新しい生活が始まるんだと、改めて感じ入ったものだ。

遊びたい盛りの一年間を丸ごと勉強に費やして、やっとの思いで入った大学。

そこには、僕と同じ気持ちと境遇を持った、まだ見知らぬ人たちが、僕と同じくスーツに着られながら待っている。

そこで新しく、趣味の合う友人を見つけることはできるだろうか。

友達百人とは言わずとも、面白い人にたくさん出会えるといいな。

少々子供っぽいけれど、そんな浮き足だった心持ちで、道々地図を確認しつつ、大学に向かったことを覚えている。

だから、気づかなかったのだろう。

目的地まで最短の道を表示するよう設定した地図アプリが、随分と辺鄙な道を示していたことに。

商店街の隙間を縫う、薄汚い路地裏の細道。

スマホを見ながら進んでいると、いつの間にかそんな道を歩かされていたが、今更元の道に戻って別のルートを再検索しても、入学式の時間に間に合うかは分からない。

新品のスーツに、ダクトからの排気を浴びせられ、生臭い匂いが付くのは嫌だったが、背に腹は代えられない。

せめて、さっさと通り過ぎてしまおうと、足早に駆け始めたその時。

”それ”は、僕の門出を呪うように、ただそこに存在していた。

初めは、ただ人間が立っているのだと思った。

烏の濡れ羽のように艶やかな髪に、差し色の紫が入っている。

会場に向けて、半ば走るように歩いていたけれど、それでも思わず足を止めるほど、それはそれは美しい人だった。

その人は、すらりと長い腕をポケットに突っ込み、雑居ビルの隙間から空を見上げながら、ゆっくりと煙草を吸っていた。

室外機から排気が当たるのも気にせず、紫煙をくゆらせ、路地裏の開けた通路に佇んでいるその姿は、どうしてか人間が触れてはならない、何かひどく神聖なものを感じさせる。

だから、僕は──彼がいるその空間に、足を突っ込むなどという真似ができなかったのだろう。

今から考えてみても、僕はそれで、正しかったのだと思う。

事実として、その予感は当たっていたのだから。

けれど、逆に──その場から逃げもせず、ただ茫然自失と、彼のことを眺めていたのは、きっと間違っていたのだろう。

その人影は、ほんの数秒も立たないうちに、口に咥えたまだ長いままの煙草を、やけに苛立った様子で地べたに吐き捨て、足で踏みつけ火を消してから。

これ見よがしに、大きなため息を吐いた後──

「うざったい」

──怒りのままに、そう吐き捨てて、彼はこちらを睨む。

その瞳。その声。その顔。

輪郭がぼやけるくらいに遠くに居たのに、彼が僕の方を向いた時──僕は、心臓が止まったと、そう錯覚したのだ。

美しい?おぞましい?それとも恐ろしい?

その瞬間の自分が、どう感じていたのかは、もはや定かではないが──とにかく、細められた瞼の奥の、紫の瞳が僕を射止めた瞬間、思考が止まった。身体が縛り上げられた。一切の自由が奪われた。

彼の許可なくては、考えることすら勝手には行えない。

たぶん、息もしていなかったと思う。もしかすると、脳の働きも止まりかけ、仮死状態になっていたかのかもしれない。

それでいて──幸せだった。嬉しかった。気持ちよかった。

例えるなら、心の底から愛してやまず、私財も時間も全て投げうつほど大好きなアイドルと、二人っきりでばったり会って、僕の方を見ながらウインクしてくれた。

その心地を──何十倍、何百倍どころではなく、無限に、数限りなく、増大したような。

一瞥、流し目を送られただけで、心の中で爆発するような恋慕が吹き荒れて止まらない。

その時、人はあまりに胸が高鳴ると、頭が割れるように痛くなることを知った。

「誰も来ないから、こんな臭くて汚らしい場所で、わざわざ黙って大人しくしてたのにさ……。だから、嫌いなんだよ……人間なんか」

眉間に皺を寄せ、その人の形をしたものが、僕を殺すほど睨みながら、足音を立てて近づく。

それだけで、僕は──失禁していた。精液だって漏らしていた。

魂の根幹にまで、魅了と恐怖が染みついて、ほとんど廃人と化していたのだ。

今から思えば、彼はこの時、僕を──殺すつもりだったのだろうと思う。

それも、ただ殺すのではなく、できるだけ苦しませて、惨たらしく、八つ当たりをするように、ぐちゃぐちゃの肉塊になるまで、叩き潰す。

そうしたかったから、わざわざ近づいてきたのだ。

そうでなければ、その場で目も合わせず、彼は『死ね』と命令して、僕は勝手に心臓を止めて死んでいたに違いない。

この夢を見るたびに思い出す。

僕は、たまたまあの日、恣紫の機嫌が悪かったから、生き長らえることができた。

そして、もう一つ、たまたま。

確か、あの時──そう、ポケットの中のスマホが、メールの通知を鳴らしたのだ。

それで、一瞬とはいえ、ほんの少し正気を取り戻したのも、これも偶然。

その瞬間、咄嗟に、血が出るくらいに思い切り舌を噛んで、痛みによる気つけを行えたのも。

竦み切っていた脚を、なんとか必死に動かして、空回りしながらも走って逃げ出せたのも。

全ては、天文学的な確率を潜り抜けた先にある──奇跡のような偶然の産物だった。

そう、とにかく僕は、逃げ出せたのだ。

ゆっくりとこちらに向かう、その化け物に背を向けて、がむしゃらに走ろうとした。

その身体が、何かにぶつかり止まったのは、ほんの二、三歩だけ進んだ、瞬間。

「ねえ」

──さっきまで、あんなに遠くに居た、化け物の身体にぶつかって、僕はまた尻もちをついたのだ。

瞬間移動したとしか、理屈のつけようがないことだった。

半ば、気が狂ったような心地で、見上げると──当然、その顔がある。

直視すれば、目どころか魂がつぶれる、美貌なんて言葉じゃ言い表せない美貌。

「今、逃げた」

それが──ぐいと、顔を寄せて、その声で、僕に詰問する。

頭の奥で、じゅうじゅうと、何かが焼け焦げるような、あるいは硫酸に溶かされるような音がしたことを、覚えている。

今更言うことでもないが──また、その声が、美しいのだ。

思わず鼓膜を指で貫いて、聴覚ごと逃げ出したくなるほど。

「俺からさ、逃げようとしたよね」

でも──”それ”は絶対に逃がしてはくれない。

僕の胸ぐらをつかみ、無理やり立たせながら視線を合わせ、無慈悲に無機質に、ただ動く。

先程まで、あんなに機嫌を悪くしていたのに、今は苛立ちも怒りもなく、ただ感情の読めない無表情を向けて。

しかし、瞳孔まで開ききるほど、目だけはかっと見開かれている。

そのアメジスト色の輝きに、ただ睨まれているだけで──足腰が砕け、全身が強張っているのに力が入らず、まるで麻痺毒を飲まされたかのように、動けない。

口の中には、鉄臭い血の味と、鋭い痛みが広がっているはずなのに──それすらも感じない。

ただ、薄ぼけて焦点の定まらない、ふわふわとした心地よさだけが、頭の中に広がっている。

頸を締められ、気絶する寸前、ふっと浮遊感を覚えるような、あんな気持ちよさ。

それが、脳みそごと握り潰されるような恐怖の中で、不自然に感じさせられているものだから、ひくひくと口元が引きつって、痙攣してしまう。

「……ああ、ああ」

それを見て、彼は──思わず、といった風に眉を下げ、うろたえたように声を絞り出す。

まるで、天上から人々に試練を与える神々が、自らが与えた苦痛に喘ぐ人間を見て、心から哀れみ悲しむような、歪な光景。

「ごめん、違う、怖がらせたい訳じゃない……。ただ、驚いて、訳を聞きたくて」

困り果てたように、ぼそぼそと途切れ途切れに呟いて、僕の胸ぐらを掴んでいた、その長い腕を離す。

すると僕は当然、下半身の踏ん張りがきかず、地面に頭から倒れてしまい、痛みに呻いた。

その時、僕は──心底、ほっとした事を、覚えている。

痛かったけれど、痛い方がむしろ安心した。

目が焼けるような、彼の相貌を見続けていると、快楽以外の何もかもが理解できなくなってしまう。

それよりは、地面に倒れた方が、心理的にも肉体的にも、負担はずっと軽かった。

けれど、彼にとって、それは本意ではなかったらしい。

白魚を思わせる、白磁の指をそっと頬に沿わせ、ひび割れた陶器でも扱うかのように、慎重に僕の身体を起こす。

「ああ、ごめん、ごめんよ……。しまったな、人間の扱いっていうのは、ちっとも分かんない……」

相変わらず、その化け物の考えていることは、全く理解できない。

──彼のほうを見上げた時、その表情がまるで、主人に甘噛みをして叱られる、大型犬のように、しおらしく、落ち込んだものになっているのを見て、ますますそう思った。

「あ、血が出てる……。痛い、よね。俺のせい、だよね……」

先ほどまで、あんなにも怒気を強めていたくせに、今はおろおろと狼狽し、泣きそうなくらい落ち込んでいる。

たぶん、目の前の彼からしたら、虫けらにも等しい価値しかない、ただの人間の僕に対して。

──それは一体、何故?僕の何が、彼をこうした?

寝落ちる直前のような、ほとんど虚ろな頭を必死に回して、それを考える。

──そんな、ちっぽけな人間のちっぽけな抵抗を、あざ笑うように。

彼は突然に、僕の唇を奪って、ますます思考を吹き飛ばす。

「ん……」

そう、唇を奪われた。キスされた。接吻をされた。

軽くリップを押し当てる、ただそれだけのものなのに──その唇が触れた途端、ぼんやりと霞がかった脳みそに、電撃が流されたように、快感が走る。

身体が一直線にぴんと伸びて、打ち上げられた魚のように、背筋が跳ねてしまうほど。

「……じっと、しててね……」

彼の凶行は、それだけでは止まらない。

頬を掴み、凶悪なくらい美しい顔面を、間近で見せつけたまま──舌を、口の中にねじ込んで、粘膜を舐め回し始めたのだ。

もう、当たり前に、気が狂う。

身体中に張り巡らされた、絶頂するためのスイッチを、でたらめに押されまくっているような、そんな感覚。

ただ、舌で舐められているだけなのに、身体のどこがどうイっているのかすら全く理解できない、未知の感覚に翻弄され続ける。

しかし、目の前の怪物は、涼しい顔をしながら、その蛇のように長い舌をずるりと引き抜いて──

「……どう、治った?」

──と、ひたすら無邪気に話しかけてくる。

それに対して、僕は一体、何を治して貰ったのかもしばらく分からないまま、かひゅ、かひゅと浅く息をして、脳に溜まった絶頂感をなんとか追い出すことに必死になっていた。

──口の中、強く噛んで切れた舌が、綺麗に治っていると分かったのは、それから数分後のことだ。

そうして、僕が息を整えている間にも、彼は僕を見下ろしながら、ぐるぐると周りを回る。

その様子は、まるで腹を空かせたハイエナが、弱った獲物を追い詰めているかのよう。

いやに浮かれた様子で、ぐるぐる、ぐるぐる、全身を眺めて回る。

息も絶え絶えの僕とは対照的に、にまにまと微笑んで。

──人間は、理解ができないものを最も恐れるとは、よく言ったものだ。

まさに今、その恐怖を、身を以て体験している。

もしも彼が、ただ僕を殺そうとするだけの、ありふれたホラー映画のキャラクターのような怪物であれば、こんな思いはしなかっただろう。

それならば、ただ一息にひねり潰されて、納得感にも似た諦めの中で、ぷつりと息絶えるだけだ。

けれど──彼は、正真正銘、何を考えているかがちっとも分からない。

その思考の、糸口すらもつかめない。

僕を傷つけたいのか、陥れたいのか、あるいは気に入って持ち帰りたいのかすらも。

背筋にぞわぞわと、悪寒が這い寄る。

そんな僕の思いを、知ってか知らずか。

彼は、僕の正面で、ぴたりと足を止めて。

地べたにへたり込んでいる僕に目を合わせるよう、片膝をついてしゃがんでから、じっと目を合わせて、言う。

「ねえ……キミさ、名前、何て言うの」

まるで、子供が遊びに誘うかのような、邪気のない言葉。

それがむしろ、今の状況には不釣り合いで、僕にはどうしても受け入れられない。

頭が、彼の言葉を拒んでいる。

けれど──どうしてだろうか。

僕は本能的に、彼の言葉に、嘘偽り無く答えなければならないと、そう感じている。

どれだけ理性で押し込めても、喉元まで言葉が出かかって、気を抜けば口が名前の形に開いてしまう。

ぱく、ぱく、口を開いては、蓋をするように閉じる。

それを、何度か繰り返すと──彼は、くすくすと、口元に手を当てて、上品に笑った。

「へえ、そう」

僕は、名前を教えて欲しいという、彼の望みを断って、無視したはずなのに。

その表情、その仕草は、どこまでも上機嫌を示している。

「じゃあ、じゃあさ、好きな食べ物は」

その上で──彼は。

「歳はいくつ」

矢継ぎ早に。

「どこに住んでるの」

僕に向かって。

「好みの女のタイプは」

質問を続ける。

両手で包み込むように、僕の手を握りながら、じりじりと一歩ずつ詰め寄って。

その度に、こちらも一歩ずつ後ずさるけれど──そんなもの、抵抗にもなりはしない。

手のひらから伝わる、彼の肌の感触。

聴覚を犯す、彼の蠱惑的な声。

それらに、幾度となく理性を叩きのめされて──ぐわんぐわん、視界が揺れる。

もし、もしも──彼が、こんな穏当な聞き方ではなく、一言ぴしゃり、『答えろ』と命令していたのなら、僕は全く耐えられなかっただろう。

芸を仕込まれたオウムのように、つらつらと、聞かれるがままに、彼の欲しがる情報を全て明け渡していたはずだ。

ただ、彼が曖昧な聞き方をしたから。

僕は、唇を噛んで、黙っていることができたのだ。

それは──目の前の怪物への、せめてもの強がりだったのだろうか。

それとも、単純にそれを教えてしまうことを、恐れていたのだろうか。

ともかく、口を開いてはならないと、直感的にそう思ったから、僕は必死に押し黙って──

「……ふふ、あっははは!」

──それに対して、彼は心から可笑しそうに、声を上げて笑う。

僕は今、彼の思い通りにはなるまいと思って動いているのに──そんな些末な抵抗すらも、彼の手のひらの上で踊っているに過ぎないのだろうか。

ただ、心のまま自然に振舞う彼に、ことごとく打ちのめされる。

何度でも、絶望し、恐怖し、震えあがる。

「ねえ、さっきの事、改めて謝らせてよ」

けれど──そんな僕とは反比例するように、彼ときたらどこまでも上機嫌に。

澄んだ紫水晶の瞳をきらきらと輝かせ、楽しげに弾んだ声で、僕の手を取った。

「そんで、そんでさ、良かったら……」

その表情には、何の企みも、てらいもなく。

悪意も、邪心も宿ってはおらず、ただひたすら、少年のように純粋だった。

「俺と、友達になって欲しいな」

──だからこそ、理解ができなかった。

受け入れられない。許容できる範囲を、まるで超えている。

瞳孔が締まり、視線がぐらついて定まらない。

それなのに──彼の瞳から、目が離せない。それこそ、釘でめった刺しの磔にされたように。

呼吸が浅くなり、冷や汗が止まらない。

こちらに向けられている目も、声も、手つきも、僕に親愛を示しているけれど──それが、いっとう不気味だ。

ほんのついさっき、煙草を踏み潰した彼の瞳は、確かに嫌悪をむき出しにしていたはず。

それも、並々ならぬ敵意──いや、殺意をもって。

それこそ、人間を虫けらにも思わない、一切の愛着も慈悲もない、絶対零度の視線を、間違いなく僕に。

それが、今やどうだ。

友達──友達と言ったのか?聞き違いではなく?

自分の聴覚すら疑わざるを得ない、豹変っぷり。

その表情は、尻尾を千切らんばかりに振る犬を想起させる、眩しく屈託ない笑顔だけれど──人ではない何かの遺伝子が放つ、異様なカリスマとプレッシャーが、全くミスマッチで寒々しい。

彼の意識が、僕に向いているという事実、その重圧に耐えられず──吐き気が、腹の奥からこみ上げる。

それでも、なお──目線だけは、彼の瞳から一切離せなかった。

ブリリアントカットのダイアモンドのように、覗き込めば光が乱反射して、ごく鮮やかな色彩を見せるのに──その色は深く、深淵のように暗い。

そんな、この世にはない紫色を眺めていると──ふと、クトゥルフの邪神を思い出す。

姿を視界に映すだけで正気を失い、数分もその姿を見ていれば、狂い果てて死ぬと言われる、おぞましく深い何か。

それは、あくまで創作上の存在だけれど──もしも、それらが現実に居たのなら、きっとこんな姿をしているのだろう。

見ただけで狂気に陥るという、あまりに非現実的な現象を、軽くだがその身で体験させられて、そう確信せざるを得ない。

「……ね、どうかな」

薄く、笑みを浮かべたまま、彼はなおも問いかける。

ほとんど無意識に、僕はじりじりと後ずさるけれど、逃がさないと言わんばかりに、手は繋がれたまま。

金属を打ち付けたような、大きい耳鳴りの奥で、微かに商店街の喧騒が聞こえている。

それが、僕を現実に引き留めるための、唯一にして頼りない、ちっぽけな楔だった。

だから、じりじり、じりじりと後ろに下がり。

路地裏を抜けて、表通りに出た途端──人の雑踏も、ざわめきも、話し声も、音という音が、全て消え失せた、その瞬間。

ああ、僕の正気はいよいよ耐えられなかったのだと、そう確信したのだ。

だが、それは間違っていた。

──現実は、自分の想定していた最悪よりも、なお救いがなかったのだ。

正気を失っているのは、僕ではない。

彼のことを認識した、僕以外の全て。

その美貌を、一目見て──周囲にある全てが、機能を停止して、ただ彼に見惚れている。

一切の動きを、そして思考を止めて、彼に魅入られる。

僕と同じように──そして、僕とは比べ物にならないほど、取り返しがつかない、重さで。

つい数秒前までは、彼の瞳から目線を逸らそうと、必死こいていたのに──今は、その逆だ。

目に入れたくない。彼に魅入られた者の辿る末路を、知りたくない。

目の前にいる、この邪神が──確かに今、夢でも幻でもなく、世界を壊しているという事実を、目の当たりにしたくない。

でも、けれど、ああ──それはいっそのこと、神秘的にまで思える光景だった。

天使だか女神だかが降臨し、下界の人間たちはその威容にただ涙して、声も上げずにただ祈る。

そんな情景すら思わせるほど、奇跡じみた能力。

ただ、存在することによって、人をどうにでも狂わせる、その悪魔じみた蠱惑に、僕はほんの少し、崇拝にも似た感情を抱いた。

──けれど。

「……ちっ」

彼は、それを見た途端、吐き捨てるように舌打ちをする。

気分が悪い。

それを隠そうともしない、憮然とした態度に、鳥肌が立つ。

ああ、この悪魔は。

たぶん、心の底から──人間が嫌いなんだ。

何の突っかかりもなく、すとんと、その推測は僕の腑に落ちる。

不意に、彼が僕の瞳から、視線を外す。

その瞬間──彼は僕の方を向いてからずっと、僕から一度も目を逸らさなかったことに気が付いた。

どうにも訳が分からないが、少なくとも途方もない執着、執心を向けられていた事に、怖気が立つ。

そして、彼は棒立ちになった群衆の方を、ぎらりと睨み。

意識をそちらに向け、僕の手を握る、その指が、解けて。

「あっ」

途端、呪縛が解けたように、僕の脚が動く。

動かした、というよりは、全く勝手に動いたのだ。

逃げ出したい、一刻も早く逃れたいという本能が、そうさせたのだろうか。

まず一歩、二歩、立ち上がった足が弾けるように地面を蹴って、駆けだして。

僕が何かを考える前に、景色が彼の方から遠ざかって──それから、思考が追いついてからは、ますます力強く走り出した。

もう目の前も見ず、何も考えず、時折ぶつかり、転びかけ、息を切らしながら。

どんな道を走ったのかも定かではないほど、がむしゃらに、やけっぱちに、ただ走って。

気が付けば、僕は──アパートの自室に戻り、扉に鍵をかけていた。

がちりと、錠前が回った音を聞いた途端、足腰から力が抜ける。

それから、喉の締まるような苦しさに気が付き、焼けくそに回した足がじくじくと熱くなっていることを確かめ、ほとんど酸欠になりかけていた肺にたっぷりと空気を送った。

ずるずると、鍵のかかった扉を背にして、崩れ落ちる。

薄気味が悪いほど、昨日と変わらない部屋。

正面の道路にバイクが通る音も、カラーボックスに入った防虫剤の匂いも。

何もかもが、嘘みたいに当たり前だ。

──今は、何も考えられない。

何も考えられないし、考えたくもない。

一向に落ち着かない、浅いままの呼吸を、何度も繰り返しながら、革靴もスーツも脱がず、玄関の靴置き場に座り込む。

ああ──もう、とにかく。

今日のところは、逃げてしまおう。

何もしたくない。何も考えたくない。

眠くなんか無いけれど、布団に入って、電気を消して、耳をふさいで、目を閉じよう。

今すぐに、そうしたかった。

ふらふらと、笑った膝を叩いて、よろけながらも何とか立ち上がる。

立って、そのまま居間に上がりかけたところで、自分の格好に気が付き、靴を脱ぎ捨てて。

脱ぎ捨てた、ところで。

「もう……返事もしないまま、どっか行っちゃってさ。そんなに慌てなくていいじゃん」

首から肩に、肩から胸に、ゆるりと腕が巻き付けられ、耳元には吐息が吹きかけられる。

触れられたところから、肌が性感に爛れていくような、淫らで邪悪な感覚。

僕は、どうして扉に鍵をかけた程度で、自分が安全な場所まで逃げ込んだと錯覚できたのか、心の底から後悔する。

──最早、振り向いて確かめるまでもない。

そこに居たのは、僕がたった今、死力を尽くして逃げてきた、死神。

「ところで、ここは……どこ?キミのねぐら?」

それが、ずけずけと僕のテリトリーに入り込み、どこよりも安心できるはずの家を、我が物顔で踏み荒らしている。

昨日から敷いたままの布団、まだ物を出していない段ボール、中身が空っぽのタンス──そして、異界から現れた人外の生命体。

これから当たり前になるはずの、何でもない部屋の景色に、くらくらするほどの壮麗さが、くっきりと浮いてしまっている。

「……ああ、いいなあ、すごく。優しい匂いがする。とても、安らいだ気分になる……」

落ち着いた木目の家具と、決して混じり合わない異質な絢爛さ。

いちいち格好をつけたりしなくとも、しなやかで品のある顔立ちと体つきは、それだけで貴族や王族を思わせて──それ故に、何とも交わらない。

部屋の真ん中に立ち、こちらを向いて微笑む、魔物。

実写の映像に、CGのキャラクターを合成したような、猛烈な違和感がこみ上げる。

昨日、確かに一夜を過ごしたこの部屋まで、舞台のセットに思えてしまう。

彼がそこに居るだけで、現実味がとことん薄れて、遠ざかってゆく。

「……ねえ、さっきの話の続き、なんだけど」

僕が座り込んでいる、この靴置き場の向こう、彼がいるリビングは、絵画の中の世界だ。

入ろうとすれば、見えない壁にぶつかって、はじき出されてしまう。

彼の人間離れした神秘性と、ミステリアスな魅力に当てられて、本気でそう感じていた僕は──彼に手を取られ、玄関にへたり込んだままの身体を、居間まで引きずり込まれたとき、足が竦んだ。

彼と同じ空間に立ち入り、空気を吸う事ができる、対等な立場まで引っ張り上げられたような気がしたからだ。

真正面から、はっきりと、相対する。

──ここへ来て初めて、彼の顔を、はっきりと見たような気がした。

ああ、この化け物はこんなにも──人間をかどわかすのに、都合のいい顔立ちをしていたんだ。

視界に入れた瞬間の、あの脳天が痺れるような、強烈な感動を、はっきりと上回って──つくづく、完璧に美しいな、と思った。

息が詰まる感覚。

呼吸をすることすら気が引けてしまうほどの、圧倒的な貫禄に、気圧される。

膝が震えて、身体が勝手に、彼の威光に跪こうとしている。

「……ふふ、怖いんだ。いいよ、分かった、じゃあ、こうしよう」

──だと言うのに、彼は。

「友達っていうのは、後でいいや。とりあえず、俺をさ、ここに置いて、使ってくれよ」

むしろ自分から、フローリングに跪き、頭を低くして。

「約束する、キミには逆らわない。なんでも従うよ、なぁんでも」

手の甲と、足の甲にまで、恭しくキスをしつつ。

「少なくとも、男を悦ばせる術なら、誰より知ってるから。もし、それが間に合ってるなら……ま、それ以外にも、役には立つよ」

とろりと目を蕩かせ、情婦のようにすりすりと、頭を腰のあたりに擦り付けながら。

「殺したい奴とか、いないの?金に困ってたりはしない?あとは、誰彼構わず支配して、神様ごっこして遊ぶってのもいいね」

情欲のような何かに、とことん狂いきった、泥沼のように昏い目を向けて──

「……だから、その代わりに、さ」

「どうか、ここに、居させて」

──そう、呟いた。

決して小さい声ではなく、はっきりとした言葉だったが──それは、威風堂々とした、その容姿に似つかわしくない、弱々しい、懇願だった。

ひどく、混乱する。

息を止め、後ろ手に腿をつねり上げ、意識をはっきりさせながら、その表情を見てみれば──この男はこんなにも、寂しそうな顔をしていたのか。

どうして、この怪物は、こんなにも焦燥しているのだろう。

誰しもを従える、絶対的な王者の力を持っていながら、どうしてこんな、縋りつくような目をするのだろう。

親に置いてけぼりにされそうになった幼児のように、僕の服の裾を、ほんの数ミリほど遠慮して掴む、この破滅的な力を持った手を、どうして今なら容易く振り払えると思うのだろう。

どうして今なら、この男がどんな要求でも──それこそ、出て行けという命令にすら、従うと思ってしまったのだろう。

そして──彼は一体、いつから、こんな顔をしていたのだろう。

もしかすると、出会った時からずっと、こんな表情を僕に向けていたのかもしれない。

主人に”待て”をされた犬のように、じっと、男は僕を見上げている。

長い脚を折り畳み、床にしゃがむその姿は、実際の身長よりも小さく見えた。

──僕が、この化け物に恐怖を抱くのも、勝手に纏わりついてきて鬱陶しいと思う事も、了承も得ずに家に上がり込んだことに怒りを覚えるのも、ごく自然なことだ。

だって、現に僕は殺されかけたし、人々を洗脳していた場面だって、この目で見た。

けれど──なぜか、僕の胸には、少なくない罪悪感のようなものがあった。

同情、しているのかもしれない。何に対してかは、僕にも分からないけれど。

だから、僕はこの時、彼に向かって、初めて。

──家……ないの?

短いけれど、言葉をかけた。

「……ない、訳じゃない。でも……帰りたくは、ない」

それに対して、また言葉が帰ってくる。

簡潔だけれど、どこか戸惑った、ぎこちなく慣れない言葉。

お互いに、まだ精神的な距離は遠いけれど、少し歩み寄り──同じ言語を使って、会話をしている。

たったそれだけで、僕はどうしてか、彼の顔を直視できるようになっていた。

ああ、綺麗だ──とは思うけれど、あの腰が砕けるような、脳みそをぐちゃぐちゃに溶けさせられる感覚は、来ない。

じっと、彼の濡れた瞳を見下ろす。

しばらく目を合わせてから、頭を低くした彼に合わせて、僕も目線を同じくするように、座る。

今度は、彼の方がびくりと震えて、少し左に、顔を逸らした。

彼の目線を追ってみると、ふと、買ったばかりのそれが目についた。

こちらに引っ越す前に、日用品を揃えに入った百均で、ついでに買った、何の変哲もない南京錠。

無くしてはいけない貴重品を箱に入れて、これを取り付け、保管できるようにしようと思い、手に取ったのだ。

何かを考える前に、ぱっとそれを掴み、彼に向かって差し出す。

冷静になって考えてしまえば、この男に関わるメリットなんて一つもないと、そう結論を出してしまうことが、自分でも分かっていたから。

僕は努めて、頭を回さないようにして、ただそれを突きつけた。

彼は困惑したように、南京錠と僕を交互に見る。

そして、僕が何も言わないことを確認すると、ゆっくり、ゆっくりと手を伸ばして、おずおずと受け取った。

──事情があるのなら、とりあえず、一晩ぐらいなら、泊められる、から。

その、勢いのまま。

内心では冷や汗をかきつつ、少なからず後悔をしながら、目をつぶって言葉を投げかける。

ええいままよ、南無三と、心の中では叫んでいるけれど、もう口に出してしまったから、あとは止まることなく言い切るしかない。

そう自分を奮い立たせ、騙し騙し、言う。

人間ではない彼を、受け入れる決心をしたわけではない。

ただ、ここで彼を追い出し、拒むという決断をすることを、後回しにしただけだ。

──その鍵と、あっちの使ってないタンス、貸してあげるから……そこに、貴重品だけ、入れておきなよ。

男はぱちくりと、目を瞬かせる。

彼が何も言わないその間に、畳みかけるように、言い放った。

──トイレはそっちで、風呂はあっち。寝心地は悪いかもしれないけど、寝るならそこのソファーを使って。

そこまで言い切ったところで、男は茫然としてしまい、ただこちらを見上げてくるばかり。

お互いに無言の時間がしばし続き、その間に熱くなっていた頭も冷え──どうにも気まずく、いたたまれない沈黙だけが残る。

ああ、やってしまったな、と心の中で独りごちた。

男がここに留まることを許したのもそうだし、何も聞かずに一方的に押し付けてしまったのもそう。

結局のところ、この男がどういう目的で、何を思って僕に近づいてきたのか、最後まで聞くことはできなかった。

男が何も言わず、じっと鍵ばかり見つめているものだから、だんだんと、落ち着かない気分になる。

何やら恥ずかしいやら気まずいやらで、僕はとうとう耐えられなくなり、眠くもないのにベッドに向かった。

ああ、泊まっていけと言ってしまった。名前も知らない、人間すらないものに。

良かったのかな。いや、きっと良かったはずだ。

だって、一目見ただけで、人間を容易く狂わせる怪物を、部屋から追い出して世に放つなんて、とんでもなく危険なのだから。

それに、もし、そうでなくとも──事情があって、見知らぬ人にしか縋ることができないものを、とりあえず匿ってあげるのは、正しいことのはずだ。

こいつが何を考えているかは、正直ちっとも分からないし、路地裏でばったり会ったばかりの僕を、睨み殺そうとするし、人間のことも嫌っているけど。

それでも──それでも匿うべき、とは、流石に口が裂けても言えない、と思う。

というか、今から考えれば、別に僕の家に泊めることはないような気も──いや、いい、そんなことは考えても仕方がない。

とにかく、今は何も考えず、ただ現状を受け入れよう。

布団の中に潜り込み、男からそっぽを向くようにして、目を閉じる。

毛布を頭まで被り、身体を隠すようにして。

ぎし、とフローリングが軋む音がした。

すぐ傍には気配があり、おそらく男が立ちあがって、布団に入った僕を見下ろしているということは、察しがついていた。

けれど、僕は何も言わないまま、布団の中でぎゅっと丸くなる。

もしかすると、万が一、このまま寝首をかかれるのかも──と、一瞬だけ頭をよぎったが、不思議なほど簡単に、それはないなと思った。

すぐ隣に、僕なんて簡単に殺すことができる、魔性の存在が立っている。

それは当然、安心できる状況ではなかったが──意外にも、僕の意識はすぐに、まどろみ始めていた。

今日は色々なことがありすぎたから、知らず知らずのうちに、精神的な疲労が極限に達していたのだろう。

うつらうつらと、瞼を閉じていく瞬間──そう、声がしたのだ。

男が何かを、ぽつりと、独り言のように呟いたけれど、布団の中に閉じこもっていたこともあって、言葉の内容は聞き取れない。

「──────────」

深く思い出そうとしても、その声はノイズがかかったようにぼやけていて、具体的な内容は一切分からない。

ただ、何かを言われているという事実だけしか、思い出せない。

それでも、どうにか耳を澄ましてみると、ほんの少しだけ、断片が読み取れてゆく。

「……い……んゆ……」

何と言っているんだろう。

もっと、もっと大きな声で、はっきりと言ってほしい。

「……し……う、ね…………」

もう少し、もう少しで聞き取れそうだ。

もう、あとほんのちょっとで──

「おーい、親友ったら、ねぇ」

──はっと、意識が浮かび上がる。

目を開ければ、今さっきまで見ていた景色と、ほとんど同じだけれども、少し違う部屋。

残っていた段ボールは片づけられ、いくつか見慣れないインテリアが増えている。

壁にはコルクボードが掛けられ、窓際には多肉植物の小鉢がいくつか置かれていた。

あのテーブルの上にも、灰皿なんてなかったはず。

きょろきょろと見回すと、キッチンの奥から──これだけは見間違えようのない、紫水晶の瞳と、ばったり目が合った。

「……大丈夫?めっちゃうなされてたけど」

柱の陰から首を出し、男──いや、女?は心配そうに眉を下げて、こちらの様子をうかがっている。

──だ、大丈夫……。ありがとう、恣紫。

そうだ、恣紫。出会ったあの日は聞けなかった、彼の名前。

知り合ってから一か月が経つ今は、幾分か呼び慣れた名前になっていた。

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