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冬コミに出す作品の進捗.1 (Pixiv Fanbox)

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淫魔とは。

性欲や恋愛感情を司る悪魔の一種であり、主に女性の姿のものをサキュバス、男性の姿のものをインキュバスと呼ぶ。

眠っている人間の夢の中に入り込み、その中で淫らな行為を行うことで、主食である精気を奪い取り生きているとされる。

夢の中での淫魔は、美しくて魅力的な美男美女の姿をしているが、それは人間の深層心理を反映した幻であり、その実体は醜い老人のような姿である。

また、近代フィクションでは、夢ではなく現実世界に実際に現れ、幻覚による搾精ではなく、美しい身体で直接精気を吸う魔物として描かれることが多い。

また、淫魔は悪魔の一種として数えられているように、人間を堕落させることをとても好む。

例えば、既に貞操を神に捧げている神職の人間や、愛し合った伴侶を持つ夫婦に、その魅力的な肢体で不貞を囁くなど、ただ単に精気を奪うだけでなく、人間を陥れるために性行為をする場合もしばしば存在する。

そのいずれの場合も、淫魔は襲われる人間にとって理想の異性の姿を形取る上、淫蕩な甘い言葉と愛撫によって人間を誘惑するため、姦淫から逃れることは容易ではない。

そうして性行為を行う場合も、爛れた姦淫を行うことが多く、具体的には大人数での乱交を好む。

これは、様々な異性を一度に誘惑し、まとめて性行為を行うにより、効率的に精気を奪うことができるから。

または、単純に淫魔は堕落を好むことから、単純に多くの異性を傅かせる行為を好んでいるという説もある。

そんな淫魔からの被害を逃れるためには、それを精液と勘違いして持って帰るため、枕元に牛乳をグラスに一杯置いておくとよい。

また、神への強い信仰心や、強い自制心を持っていれば、淫魔からの誘惑を跳ねのけることも、難しいが不可能ではないとされている。

それから──

──僕は、その続きを読むことなく、本をぱたんと閉じ、乱雑に積み上げられた本の山のてっぺんに置いた。

現実には、つい先日まで、この世に淫魔なんてものは存在しなかったはずだから、仕方がないのだが──それにしても、この本を書いた人間は、実際には淫魔に関して何も理解していないのだと、今の僕ならよく分かる。

本当の淫魔は──夢の中には現れず、実在する魅力的で美しい肉体をもって、人間を誘惑する。

また、淫魔は人間から性行為によって精気は吸い取るものの、それによって人間を貶めようという意思はない。

更に、彼らは人間が嫌いなため、乱交を行う事はよくあるが、それ自体を好んでいる訳でもない。

そして、当然ではあるが、枕元に牛乳を置いていただけでは、誤魔化されるはずもない。

もっと言えば──彼らは、悪魔ですらない。

ただ、淫魔という、そういう種類の生物だ。

いや──生物と言っていいのかすら分からない。

理不尽で残酷な、人智を超えた、宇宙の法則すら通用しない存在だ。

そして最後に、何よりも。

最も、この本の記述の信頼性を損ねている事実として──

──淫魔の美貌を見て、それに抗うことなんて、人間には、まさか出来るはずがない。

ほんの少しでも、淫魔を知っている人間からすれば、それは揺らぐことのない常識だ。

人間は、いつか死ぬ。

太陽が沈めば、夜になる。

リンゴを手から離したら、地面に向かって落ちる。

それと同じように──淫魔の姿を見たものは、例外なく魅了され、その淫魔に奉仕するために、自らの命すら使い果たす、絶対服従の操り人形となる。

僕にとっては言うまでもない、当たり前のことだった。

──また、外れだ。

次の本を手に取り、”彼”について記された情報を探すため、僕はまたぱらぱらとページを捲った。

──よく晴れた、春の日。

大学の中の、混雑したカフェテリアの端のテーブルで、僕は山積みの本を読んでいた。

このカフェテリアは、日がよく差し込むように作られており、なおかつパソコン作業もしやすいように適度に薄暗い。

最新型の空調機器により、中の気温も常に適温に保たれており、居心地は抜群だ。

それに、ここは下手な喫茶店よりコーヒーが安くて美味しく、気兼ねなく長居できるから、本を読む場所としてとても優れている。

おまけにこの大学は、下宿先のアパートから歩いて行くには丁度いい距離だ。

ただでさえ家に籠りがちな僕にとって、やる事がなくて暇な時、散歩がてら日光を浴びるには、このカフェテリアはこれ以上ない場所だった。

それは、僕以外の学生たちにとっても同じことのようで、彼らも時間を潰す時には、こぞってここを絶好のたまり場として扱っている。

──だからこそ、気まずい。

周囲からちらちらと向けられる、恐れるような畏敬するような目線に、僕は思わずため息を吐きそうになる。

新品のスーツを着込んで、入学式に出席したのは、つい十日前の出来事だ。

あの時は、高校時代の友人たちや、生まれてからずっと同じ家で暮らしてきた家族たちと離れ、慣れない環境で独りぼっちになることに、それなりの不安を感じていた。

誰とも友達になれなかったら嫌だとか、変な人に絡まれたらどうしようだとか。

しかし、今考えれば──その程度で済めば、どれほど良かっただろうか。

現実は小説より奇なりとは言うものの、いくら何でも想定のしようがない事態に、僕はここ最近、ずっと頭を抱えていた。

手元のアイスコーヒーを、一口啜る。

普通に買えば、これも200円はする代物なのだが──どうしたって、売店の人にはお金を受け取ってもらえないし、これを買うために列に並ぶ時も、順番を抜かして僕の分だけが先に届いてしまう。

それがあまりに忍びないので、今日なんかは何も注文せずに席に座っていたのだが、それも変な解釈をされたのだろうか。

とうとう頼んでもいないのに、いつも好んで飲んでいた、ミルクあり砂糖なしのレギュラーサイズのアイスコーヒーを、わざわざここまで運んでこられてしまった。

大学なんかのカフェテリアに、席まで商品をデリバリーさせるなんて、そんな面倒極まりないシステムは存在しない。

この大学の周りには、ろくな飲食店が無いのも相まって、特に今のような昼食時には、学生が溢れかえってしまう。

そんな中で、席まで配膳なんてしていたら、人手がいくらあっても足りないだろう。

──だと言うのに、この有り様だ。

もちろん今日も、用意していたお金は、受け取ってもらえなかった。

重ね重ねになるが、僕はそんな──対価は一切払わないが、僕だけを特別扱いして、注文も順番抜かしで最速で受けて、それが出来上がり次第、多忙を極めているスタッフを一人抜いてでも、席までこれを運んで来いだなどと、そんな事は一言も言っていない。言うわけがない。

そして、もし何らかの事情があり、カフェテリアのスタッフ達がそうしなければならない、合理的な理由があったとしても。

僕がスタッフの立場だったなら──あいつ、二度とここを利用するなよ。コーヒーなら、どこか別の喫茶店で啜ってろ、と。

絶対に、間違いなく、裏でそう文句を言う自信がある。

けれど、不思議なことに。

まるで理解ができないが──僕がここに来ると、彼らは心から嬉しそうに、我先にとコーヒーを届けにくるのだから、分からない。

その時の様子といえば、自分で言うのも恥じ入るばかりだが、例えるならば超人気アイドルがお忍びでやってきて、自分のレジで会計をしてくれたかのよう。

もじもじと恐縮し、圧倒的に目上の人間に媚びるみたいに、過剰にぺこぺこと頭を下げ、勝手にサービスを追加してくれる。

例えば今日も、トレイに乗ったコーヒーの横に、メニューにはないチョコチップスコーンを添えられてあったように。

──ペンをくるくる回しながら、自分ばかりがこんな待遇を受けてしまうことについて、ぼんやり考える。

こんな、革命を起こされる寸前の王様のような、横柄極まりない態度を──まあ、自分から取っているわけではないが、他人からはそう見えるだろう状況においても、僕が後ろ指をさされ、陰口を叩かれている様子はない。

僕が気付いていないだけで、見えてない場所では、僕の評判は地の底まで落ちているのかもしれないが──どうも、そういった雰囲気も感じない。

他人から好かれることに対して、もちろん悪い気はしないものの──こうまで理由なく、不可思議に好意を持たれても、ひたすら気味が悪いだけだ。

──じゃあ、そんな思いをするぐらいなら、こんなに人が集まる場所になんか、来なければいい。

話を聞けば、誰だってそう考えるだろう。

僕だって、そう思う。

けれど──どうしても、そういう訳にもいかないのだ。

胃が、きりきり痛む。

どうせなら、アイスコーヒーなんてお腹に悪いものじゃなくて──いや、そんなことを考えてはいけない。

それを顔に出そうものなら、またメニュー外のホットミルクが飛んでくる。

これなら、入学前の懸念通り、全員にハブられるような目に合ったほうがよっぽどマシだ。

謂われなく特別扱いを受けて、理屈もなく特権を与えられる、そんな都合のいい世界が突然に与えられるなんてのは、やはり妄想の中だけに留めておくべきだ。

現実にそれが発生してしまうと──まともな神経をしていたら耐えられないほど、かえって強いストレスを被ってしまう。

──早く、どうにかしないとな。

心の中で気合を入れつつ、がりがりと後頭部を掻き、また本の中の文字列へと意識を落とし始めた。

とはいえ──目はその文章へと向き合っているものの、頭には他所事ばかり浮かんでしまっていて、先程から一文字も頭に入ってきてはいない。

ただでさえ、こんな本なんて、集中して読んでも目が滑るのに。

『17世紀初頭における悪魔崇拝の根源』

『図説ー外なる神の全て』

『霊界から身を守るには~邪神たちの地球属星化計画~』

我ながら、ため息が出るラインナップだ。

断っておくが、僕はそういうオカルトが好きな、サブカルチャーマニアという訳ではない。

ただ──どうしても、それについて調べなければいけないから、藁にも縋る思いで、こんな胡散臭いものを、必死こいて真面目に読み漁っているだけなのだ。

──悪魔。外なる神。邪神。

僕は、それらについての記述を、日常生活の合間を縫っては追い求めている。

冗談でも何でもなく、殺されないために。

──気を付けていても、やはりため息が出そうになる。

こんなことを直接言ったとして、誰が信用して、誰が協力してくれるだろうか。

と言うか、正直に僕が今置かれている状況を語って、それを信頼された方が嫌だ。僕がそいつを信用できない。

なので、うだうだ言っていても結局は、今もカフェテリアの隅で孤立しているように、僕は一人で孤独に頑張るしかないのだろう。

ぺらぺらと、山積した本たちを、適当に流し読みして、机の上に置く。

あからさまな児童書から、知人の本棚にあったらちょっと顔をしかめるようなものまで、必死こいて、大真面目に、読み進める。

それの、ひたすら繰り返しだった。

この本は、宗教的観点と同時に、当時の大規模な飢饉や、圧政による政治の腐敗などといった、客観的事実を織り交ぜた考察により、悪魔崇拝が広まっていった理由を推察しているようだ。

けっこう面白いけど、それは僕の望んでいた情報ではない。次。

この本は、どちらかと言えば、ファンタジーの設定集に近いだろうか。

創作者などが、インスピレーションを得るためには便利かもしれないが、僕は実際の文献が見たいのだ。次。

この本は──なんだこれは、客観的事実が一欠片も見当たらない、陰謀論全開の怪文書じゃないか。

自然科学ジャンルに置いてあるから、はっきり言って期待はしていなかったが、それにしたって、読み物としても鑑賞に堪えない。次。

『国を傾かせた淫魔たち』

──本を一度取り上げて、タイトルを眺めて手が止まる。

これは、歴史上に実在した、いわゆる傾国の美女が、実際に組織を崩壊させた実例をまとめたものだろうか。

おそらく、これも僕が求めていたものではないのだろうが──しかし、淫魔。淫魔か。

やはり、”彼”を既存の言葉に当てはめるのなら、これが最も近いのだろう。

そうだ──僕は、淫魔や悪魔という種族について知りたくて、こんな作業をしている訳ではない。

たった一人の、あの男についての情報を、どうしても掴みたいだけなのだ。

ちらりと、その顔を思い浮かべる。

一 恣紫。

──この状況を作り出した、元凶の名前。

それを、心の中で唱えた瞬間────背後から、こつ、と。

靴が床を打つ音とすると共に、騒音に満ちていたカフェテリアに、むしろ今までのどんな音よりも大きな、完全な静寂が空間に張り詰めた。

今までそこにあったはずの話し声や足音は愚か、食器が擦れる音や呼吸音すらも聞こえない、不自然な無音。

それは、背後から僕を見下ろしているであろう、その視線の主がもたらしたものに、他ならない。

「ん……呼んだ?」

──背中に、冷や汗が一筋浮かぶ。

もう春だと言うのに、指先に氷を押し当てられたかのように、急激に冷えて固まって、ペンを取り落としてしまうほど、いやに寒気を感じる。

まるで──背後からどろりと抱きついた死神に、喉元へと刃先を突き付けられているかのような、絶望的なプレッシャー。

そのまま、あまりの重圧に発狂してしまいそうな、あるいは僕の後ろに居る”何か”に、その圧倒的な存在感から、絶対的な崇拝の感情すら植え付けられてしまいそうな。

そんな、正気が喪失する感覚を──どうにか、頬の内側の肉を、千切れてしまいそうなほど噛んで振り払い、イヤホンを外し、振り返る。

──いつの間に、彼はそこに現れたのだろうか。

まるで最初から、僕と連れ添ってこのカフェテリアに居たかのように、ごく当然に、音も無く。

その右手を、お気に入りのジャンパーのポケットに突っ込み、左腕をだらりと垂らしながら、いつも通りの気怠げな猫背で、ただ佇む絶世の美男子。いや──美少女?

ぱっと見ただけでは、性別の区別すらつかないほど、格好良さも可愛らしさも極まった、この世のものとは思えない麗人が、目を閉じたままその首に着けた南京錠のネックレスを、機嫌よさげにかちんと指で弾いて弄んでいた。

──その名字は、漢数字の1と書く。

二の前が一だから、『にのまえ』。

それは、誰よりも頂点に立ち、二つとして並び立つものがない、覇者のみが許された数字だ。

そして、その名前は、”勝手気まま””欲しいまま”という意味の『恣』。

それと、彼のトレードマークの、差し色として数束染められた、前髪のメッシュと。

同じく奴の最大の特徴である、誰もかもを一瞥するだけで、ことごとく自らの従順な奴隷として、心ごと虜にしてしまう、魔性の瞳の、その色──『紫』。

それらを合わせて、『しし』と読む。

彼の名前を構成する言葉は、普通の人間なら、背負いきれずに潰れてしまうほど、重い期待を負ったものだ。

しかし──それでも、一度彼のその威容を見れば、まさにその通りだと思わせるほど。

その重すぎる重圧さえ跳ね除け、むしろ涼しげに乗りこなし──更には、その程度では、まるで彼を讃えるのには足りないとすら、心の底から思わせる。

彼は、その名の通り。

うっとりと溜息を吐くほどの、圧倒的な王者のカリスマと美しさを持つ、生まれつきの覇王、『獅子』であり。

思いのままに振舞うだけ、気まぐれなほどにやりたい事をやるだけで、その何物にも縛られない奔放さと、野生的な悠然さを──社会的な行動規範に従わなければ生きていけない、奴から言わせれば”弱者”となる人間に、圧倒的なまでの存在の格の差として見せつけ。

そして何よりも、ただただ鮮烈な、怖気が走るほどの色気により──野放図な放蕩ですらも、むしろ宙を自由にひらひらと舞う、エキゾチックな大翼の蝶のように見せ、誰しもをその深紫の色で魅了してみせる、『恣紫』なのだ。

名実一体という言葉を、これほど明快に証明してみせた存在も、そうはいないだろう。

そう唸らせるほどの、あまりにも圧倒的な傑物っぷりと、絶対的な王者の様相。

人を魅了して、従える事に関しては、間違いなく右に出る者はいないと言い切れるほどの、天賦の才を持って生まれた彼はまさに──人の身を外れた、淫魔そのものだった。

完璧超人なんて生易しいものじゃない、人外の化け物。

そんな男に、僕は──彼と初めて出会った、ちょうど十日前の入学式の日から。

こうして執拗に、粘着質に、付きまとわれていた。

半ばストーキングのようなものだと、僕は思っているのだが──しかし、それにしては、何かを要求するでもなく、ただ隣に現れるだけで、まるで意図が読めない。

何か品定めをされているかのように、ほんの少し世間話をしたり、ハニートラップでも仕掛けているのか、甘えるみたいに引っ付かれたり──最近なんかは、僕のアパートに入り浸たられたりもして。

合鍵も渡していないのに、僕が帰ってくるよりも先に、僕のベッドに上がり込み、無防備に昼寝なんてしていて──そのまま泊っていくという事も、少なくはない。

──その理由は、僕には分からない。

「俺のこと、待っててくれたの?悪いね」

それはそれは、触れれば切れてしまいそうなどに。

猟奇的なまでに美しい、横顔だった。

その、無駄の一切ない、端整すぎるほど端整な顔立ちは、比喩でも何でもなく──すれ違っただけの女性を、ともすればそういった趣味のない男性までも、片っ端から惚れさせるほどに、現実離れして恰好よく、有り体に言えば絶世のイケメンで。

しかし、シャープで細い鼻立ちや、婀娜めいて長いまつ毛、艶めいた肌に流麗な輪郭は、どこか女性らしい優美さも兼ね備えており、その妖しい色香に男すら惑わせる。

かと思えば、いつも腑抜けた猫背のまま、退屈そうに眠たげな表情を浮かべているくせに、どこか気を抜いているようで張り詰めた、自然体だからこそ野性的で力強い、雄らしい雰囲気があり。

そのくせ、一挙手一投足が、ぬるりと掴みどころがなく、いちいち腰つきの妖艶さや、伸ばした指先の遊女じみた反りが、一顧傾城の淫婦を思わせる。

──妖艶さも清純さも、淫靡さも神聖さもミステリアスささえも。

男性的な官能と女性的な艶が、そしてありとあらゆる魅力が、何もかも常人離れした練度で兼ね備えられており──便宜上は僕も”彼”という二人称を使っているものの、冗談ではなく、一目見ただけでは、それは『彼』か『彼女』かも分からない。

中性的やボーイッシュなどという言葉ではとてもじゃないが語れない、まさに性差すら──いや、人間という種族の枠組みさえも、軽々と飛び越えた美の極致。

──淫魔。

彼はいつしか、自らがそんな存在であると、そう名乗っていた。

悪魔。超自然的な、ファンタジーや神話の存在。

夢見がちな中学生じゃあるまいし、そんなものは現実に居るわけがないと、彼に会うまでは、僕もそう思っていたのだ。

しかし、彼の姿を見たその瞬間、僕の常識は根底から覆される。

──あんなに美しいものが、人間であるはずがない。

その悪魔の明眸は、歴史上の人間の中で最も美しい、世界最高の美男美女と並べてさえ、まるで比較にすらならない。

幼稚園児が描いた落書きと、4Kカメラが撮った写真を並べて、どちらがより鮮明かと聞いた時に、『何がどう違う』などと論じるまでもなく即答できるように。

その男の麗容と言えば、おおよそ人間が考えうる”究極”を、十段や二十段も超えるほど、次元を超えて美しかった。

それほどに、あまりにも綺麗で、むしろ世界の理を超えた、不気味な化け物の姿とすら思えてしまう──あまりにも完璧すぎる、不自然なまでの麗姿。

むしろ艶美を極めすぎたが故に、彼の姿を見たものは、誰しもが恐怖にも似た感覚を覚えてしまう。

それは、例えるなら──自らが信仰する神に対して抱く、畏れや敬い。

それを、今でも僕は、目の前の彼に対して、抱いている。

多少は慣れたと思っていたが、今でも彼の姿を見て──ぶわりと全身に鳥肌が立ち、脂汗が流れ落ちてしまっているように。

そんな男が──悠然と椅子を引き、臆することなく、座る。

テーブルを挟んで、僕の対角線にある、満席のカフェテリアに、たった一つだけ空いた席。

──彼のお気に入りの、玉座にも等しい、特等席だ。

「おはよ」

ぽそりと呟かれた、短い挨拶。

たった三文字きりの、その言葉を聞いて、それだけで──直に脳みそを弄られたかのような異常な恍惚と、急性アルコール中毒のように、官能を伴うかっとした熱さ背筋を駆けて、意識がくらりと遠のきそうになった。

──射精にも似た、腰が浮きそうになる感覚。

ぐっと、法悦に震えそうになるのを、必死に誤魔化す。

ことごとく、聞いた人間の背骨を溶かす、その悩殺の声。

それはまるで、女神がハープを鳴らしたかのような──いや、違う。これは、そんな清らかなものでは、絶対にない。

それよりも、ずっと冒涜的で、致死の猛毒じみた、おぞましく甘ったるい美声。

鈴の音のように爽やかで、春風のように涼しげだが──コールタールのようにどろどろと粘ついて、それでいて鼓膜にへばりつくほどミルキーで、いちいち腰に響くほど蠱惑的な、不可思議な音色のハスキーボイス。

その魔性の声を以てして、何事かを囁かれたなら──もう、それだけで、脳が溶け尽くす。

ただそれだけで、彼の言葉に従って動くだけの、操り人形に成り下がってしまうに決まっている。

そんな魔声を──こんな傾国の淫魔が持っているのだから、尚更悪い。

「……つっても、もう昼か。今日こそは、早起きしたと思ったんだけどな……」

ただ、目の前に現れて、適当な世間話をしているだけ。

それだけで、彼は──こんなにも、人々を魅了する。してしまう。

兎にも角にも、その容姿が、どこを取っても優れすぎているのだ。

──すらりと高い、190センチにも届く長身に、その身長の割合の半分以上を、どう考えても股下が占めているという、これまた長くてスリムな脚。

無駄な肉や毛が一切存在しない、中性的な白い御御足は、ダメージジーンズの隙間から、上等な陶磁器のように、いやに艶めかしく照り輝く。

しかし、かと言ってその腿は細すぎもせず、血色も良好で、不健康な印象や、なよついて弱々しい印象はなく。

むしろ、下手に太くしただけの、下品な見せ筋よりも、下手なウエイトをつけないアスリートのような、柔靭で男らしい力強さを両立させていた。

そして、その魅惑の脚にも負けず劣らず蠱惑的な、妖艶な腰つき。

きゅっと締まったそれは、生物として不自然なほど完璧な、モデル体型のウエストとのコントラストで、ほんの少し曲線を描きながら膨らみ、誘うようなセクシーささえ感じてしまう。

オーバーサイズの肌着と、前を開かれたジャンパーから、ざっくりと覗く胸元。

肉付きが少なく、胸板は薄めだが──だからこそ、大胆に露出されて、その生肌の色気が強く引き立ち、むしろ谷間を見せつけられるよりも、強烈にどぎまぎさせられる。

ギリシャ彫刻じみて整った、高い鼻梁。

薄くパールピンクに照り艶めく、グロスの唇。

彼の美貌を殊更に引き立てる、前髪に幾筋か入った紫のメッシュ。

両耳をシルバーメタルに彩る、シンプルながらも趣味のいい、たくさんのピアス。

肌身離さず首からぶら下げて、背徳的な艶やかさを強調する、南京錠のネックレス。

遠くからでもひしひしと伝わる、肌を刺すように威圧感のある覇者のオーラ。

──等々、彼の容姿の魅力なら、いくら枚挙しても尽きることなどなく、このまま日が暮れるまで語ることができる。

しかし、その最たるものとして、誰しもが真っ先に挙げる、恣紫のチャームポイントが、一つ存在した。

それが──恣紫の、瞳。

今もそうして、魔性の美女のごとく、長いキューティクルのまつ毛に彩られ。

眠たげに半分ほど閉ざされた瞼の奥で、流し目気味にうつむいている──濃い、暗紫の瞳だった。

「ところで、キミ、何してんの?読書?」

アメジスト色に爛々と輝きつつも、太陽光すらも飲み込むほどに、深い闇色に染まったそれが、一瞬こちらに視線を向ける。

それだけで僕は、彼の問いかけに言葉が詰まり、返事をすることもできない。

細く切れ長な、甘く釣り上がった瞼。

きつい印象は与えないが、決して人懐っこくもないその形は──誰かに好意を抱かれても、その相手を拒絶することは無いが、決して心を開くこともない、彼の独特の距離感を表すようだ。

眠たげに目を細め、柔和に微笑んでみせても──その実、心の底は冷え切っていて、他人には何の情も抱いていない。

ある意味で、明確に嫌悪を剥き出しにされるよりも脈がなく、どんなに刺々しい言葉をかけられるよりも冷酷な、諦観。

人間よりも遥かに上位の存在、例えば神や悪魔がそうするように──端から自分以外の生命全てを下等な存在だと見限るような、傲慢で高圧的な視線は、しかしどこか寂しげで。

そんな、退屈を持て余した、アンニュイな表情。

それを見て、僕は──呼吸が止まってしまうほど、強く心を搔き乱される。

鼻が一つ、目が二つ、口が一つ。

彼の顔は、どこをどう見たって、人間と全く同じ造りをしており、違和感を覚える要素など、本来一つもないはずだ。

けれど──恣紫のその美貌をじっと見つめていると、何かヒトならざる超常の存在と相対したような恐怖を感じ、正気を喪失してしまいそうになる。

蛇にも似て、甘く釣り上がった細い目が、アメジストのような妖しい輝きを浮かべる瞳が、僕の視線とかち合う度に、多量の冷や汗を背中に流し、肌がぶわりと総毛立ち──けれど、まるで身体は石でもになったかのようにぴくりとも動かず、視線はその光に釘付けになったまま、目を閉じることも目線を外すこともできなくなってしまうのだ。

恣紫はただ、そこに存在しているだけなのに。

たったそれだけで、僕は──いや、人間なら誰もが、その威光に屈服し、畏怖し、ひれ伏し、魅了され、虜になる。

それを証明するかのように、彼はその左手に持った、僕とお揃いのアイスコーヒーを揺らしながら、氷のように凍てついたままの人間たちに、軽く流し目を送った。

──もはや、ただの背景と化した、騒がしく食事を楽しんでいたはずの、無数の学生たち。

不安になり、それらの様子をちらりと見るが──誰も彼も、男も女も関係なく、呆けてしまっている。

その様子は、例えるなら──糸に吊り下げられたまま、命令を待っている、操り人形。

憧れのあの人が目の前にいるから、声を潜めてバレないように眺めるだとか、うるさくすると目を付けられるから、危害を加えられないよう黙っているだとか、そんな人間らしい感情は、彼らの中にはない。

意思も何も消え失せて、虚ろで恍惚とした目のまま、恣紫に恭順を示しているだけだ。

──あまりにも危険な、兵器じみたカリスマ性。

比喩でなく、彼の強すぎる魅力は、人を簡単に狂わせる。

その姿しか見えなくなる。恣紫に従うことが、自分という存在の全てになる。命をかけて恣紫に隷属する事が、最高の幸福だと思い込んでしまう。

例え、恣紫がそれを望まなくとも、人間の虚弱な精神では──恣紫の持つ、人智を超えた魅力には、どうしたって耐えられない。

恣紫のことを知覚した生命体は、必ず魅了され、隷属させられる。

例外はなく、防ぐことはできない。

その姿を見る。

その声を聞く。

その匂いを嗅ぐ。

何をしようとも、魂の底から、堕ちてしまう。

──真の王者は、ただ、存在によって、支配する。

そこに現れるだけで、人々をその威光に屈服させ、畏怖させ、ひれ伏させ、魅了し、虜にするのだ。

──けれど、僕だけは。

こうして彼と対等に、隷属させられることなく話をすることを、許されている。

その理由は、僕には分からない。

「しかし……そんなもの、わざわざ俺が苦手なこの場所で、こそこそ隠れてまで調べなくったって、直接聞けば何でも教えたげるのに。キミが知りたくて堪らない、俺に関する全て……例えば、俺の力について。それから、俺が何故、キミを気に入っているのか。俺の弱点。俺のあしらい方。俺の機嫌を損ねないための立ち居振る舞い。俺の魅力に抗う方法。そして、俺に人類を滅ぼさせないための、すべて。

……ククッ、キミってほんと、健気だよね」

──見透かすような、咎めるような、あるいは微笑ましいものを見守るような、そんな口調。

僕が、どうしてここに居るのかも、ここで何をしていたのかも、彼に対して何を思っているのかも、全てを見抜かれて──僕は思わず、死を予感する。

目の前の彼に、僕はひどく、怯えの感情を抱いている。

それ自体が、彼に対する何よりの不敬。

生存本能が、けたたましくアラートを出し、今すぐここから逃げ出すか、それができなければ舌を噛み切って、死んででも逃げろと叫び続ける。

肩を震わせ、血を青ざめさせながら。

必死に心の中で祈りの言葉を口にしつつ、僕はゆっくりと顔を上げて、彼の表情を見た。

──くつくつと、喉の奥から漏れる、可笑しそうな笑い声。

にこにこと、不気味なまでに人懐っこく笑いながら、恣紫は僕に微笑みかけている。

その表情は、とても無邪気で、怒りなどどこにも見当たらなくて。

けれど──ある意味、その表情は、この場においては最も残酷だ。

何故なら、その背景。

磔にされた死体のように、彼の言いなりになったまま、命令だけを与えられず、ぐったりとその場にうなだれる人間たちの前では、僕は到底そんな顔はできない。

しかし──彼はあくまで、他者を魅了し、奴隷扱いしようという欲望もなければ、その行為に喜びも感じないし、悪意がある訳でもない。

それは、例えるなら──太陽は、ただそこに存在しているだけで、信仰の対象となり、畏怖と畏敬を集めていたように。

恣紫はただ、どうしようもなく、美しいだけ。

何もせず、そこに佇んでいるだけで、人々が勝手に平伏するだけなのだ。

それどころか、むしろ彼は、この人間の世界で暮らすために──自分から、醜くなろうとすらしている。

生まれつき、自分自身ですら制御できなかった、その過剰な魅力を抑え込んで──すれ違った全ての人を、魅了させてしまわなくて済むように。

──それは、完璧すぎるが故の、歪。

存在そのものが、無差別な魅了を撒き散らす、この世にあってはならない、完全な美。

そんな、ヒトの枠を軽々と飛び越えた、悪魔の所業をしておきながら──やはり、彼は動じることもなく。

まるで、鼻歌でも歌い出すかのような自然さで、不意に指を近くのテーブルに向ける。

そして、くい、と軽く手招きをすると──怯えたような、あるいは上気したような、不安と期待でぐちゃぐちゃの顔をした女性が、やはり見えない糸に操られるかのように、飛び出して。

彼は、そんな女性に向かい──自分の持っていた鞄を、ぽいと無造作に放り投げた。

「それ、持ってろ」

最後まで、女性を一瞥することもなく。

そうして当然という風に、名前も顔も知らないくせに、荷物持ちとして扱う。

彼にとっては、自分の周りに居る生物は、すべからく自分に仕えるものであるという状況が、あまりにも当然であるが故の行動だった。

対する、その女性もまた、それに疑問を抱くこともなく──いや、むしろ『どうして自分に、これほどの幸運が降りかかったのか』と、涙すら流しかねないほど夢見心地に放心しながら。

茫然とした眼差しで、国宝でも預かっているかのように──汚れや傷を一つでも付けようものなら、その場で舌を噛み切ってしまいかねないというほど、異様に張り詰めた面持ちで。

どこででも手に入るような、何の変哲もない、大量生産品の安物バッグを、ただ黙って抱きしめていた。

──彼女は、一言も発さずに、空いた椅子に座ることも無く、ただ立っている。

まるで、恭しく主人に仕える、従順なメイドのような。

いや──それよりかは、一生を祈りに捧げ、経典に従うことだけを追求した、信心深い宗教家が、全能の神と対峙してしまったかのような。

そんな、狂気じみて強い歓喜と、絶対的な崇拝の感情を、彼女らの静かな微笑みと、柔らかな物腰の奥に感じて、僕はごくりと息をのむ。

淫魔とは、そういう生き物なのだ。

むしろ、恣紫は本来こうして、自分から誰かに対して、奉仕をしろと命令することはない。

ただ佇んでいるだけで、恣紫はそのあまりの美しさから──過度のストレスに自我を喪失した人のように、半ば発狂してしまった形で、相応の貢ぎ物を持ち、大挙して跪きに来るからだ。

どうか、自分の財産も、自分の身体も、自分の心も、全てを貴方のために捧げることを許してほしい、と──そんなことを、本気で自分から、彼に頼み込むのだから、恐ろしい。

──彼が、この大学に来てから、日にちとしてはまだ十日しか経っていない。

だが、そのスマホのアプリには、いつでもどこでも、呼べば財布を握ってやって来る、上玉の『食料』のリストが、ごろりと並んでいる。

やはり、恣紫が自分から、セフレの女を引っかけるような真似は、一度たりともしたことは無い。

向こうから、土下座までして、人生をぶっ壊されてもいいから、どうか私の身体も尊厳も食い物にしてほしいと、そう頼まれるのだとか。

恣紫は、僕達がフィクションなどでよく知る淫魔のように、人間を絶頂させることによって、エネルギーとなる精気を奪い取る。

それが、彼にとっての食事だ。

もちろん、食われる側の人間は、生命エネルギーそのものを、丸ごと啜られてしまうので、下手をすると死の危険性すら存在する。

一応、恣紫も加減はしているようで、吸精も三日ほどベッドから立ち上がれない程度には済ませているらしいが。

つまるところ──彼に抱かれるという時点で、食事として自分を捧げているにも等しいのに。

それに飽き足りず、彼の下に跪く女性たちは、自分の尊厳すらを彼に投げ出す。

要するに、恣紫の食い物にされて、恣紫に奉仕して、恣紫に使い潰されるという事は──彼女らにとって、死んでもいいと思えるほど、最高の名誉なのだ。

──あまりにも、行き過ぎた美しさは、コズミックホラーにも等しい。

人間の脳では到底処理できない、理外の美貌という暴力を押し付け、人間を廃人にするという意味では──彼の存在は、クトゥルフの邪神とも、そう変わりないとすら言える。

そうだ、彼は──悪魔なんて、そんな程度の低いではない。

この世界の何よりも優れた存在である、全知全能の、邪神だ。

「けど、そっか……。暇だから構ってもらおうかと思ったけど、本読んでるなら、静かな方がいいよね。あいつらも、このまま黙らせとこうか?」

そんな彼が──くい、と。

親指を後ろに向け、有象無象を指さしながら、そう言い放つ。

それは、一応は彼なりの、僕に対しての気遣いだった。

ただ、彼は、生物として隔絶した隔たりができるほど、人智を超えた絶対的な上位の存在であるから──その倫理観も、人間のそれとは大きくズレていて。

それ故に、彼は人間をただの『モノ』や『食料』としてしか見れず、人権なんて与えるまでもない、実験動物未満の扱いを、平然と行ってしまうのだ。

そう考えれば、そこらに居る適当な人間を、今も後ろで恣紫の鞄を持っている女性のように、誰彼構わず荷物持ちにするなんて、かえって有情な扱いだとすら言えるだろう。

人間に対して嫌いだと宣い、触れるどころか近寄ることすら許せないと、軽蔑するような視線を向けているのなら──その人間を奴隷にするにしたって、自分の持ち物に触らせるような真似はせず、ただひたすらに苦痛を与えて楽しむための、音の鳴る玩具扱いしていても、おかしくはないのだ。

だから、僕達人間はむしろ、雑用係の奴隷として、近くに置かれていることにすら、深く感謝しなければならない。

だとすれば──僕自身もまた、それらと同じ扱いを受けるはず、なのだが。

やはり理由は分からないが、僕だけは、彼にとって対等な存在と認められ、こうして対話を行うどころか、彼からの慈悲を受け取ることすら、許されている。

もっと言えば──僕が、このカフェテリア内で、異常に敬われた扱いを受けているのも。

恣紫が彼なりに、僕に対して施しを与えようとしたことが原因だ。

──いつしか、彼はふらりとこのカフェテリアに現れて、こう言ったらしい。

彼だけは、花よりも蝶よりも、自分自身の命よりも丁重に扱え。

恣紫から直々に、そんなことを命じられれば、この王様扱いも納得できる。

だが、しかし──そんなことを、あの人間嫌いの恣紫に言われるような覚えは、僕には全くない。

もしかすると、だが──彼にとって、人間とはあくまでも、たまたまそこに居ただけの、塵芥に過ぎないから、どうせ要らないならと、僕に衆目を押し付けたのかもしれない。

超越者である彼にとって、やはり僕達はどこまでも無力な、空気同然の存在だ。

いや──むしろ、興味も関心も無い、空気のようなものと思われていたら、どれほど良かったか。

──彼は、態度こそ軽薄なように見せかけてはいるが、その実、人嫌いをかなり拗らせており、その点では非常に頑固だ。

人間が近くに居たとしても、表立って苛立った態度を取ることはないが、ただでさえ彼の表情は読みにくく、内心でどう思っているかは僕にも全く分からない。

そのくせ、セックスは不特定多数の女性と、週に一度は欠かさず行うし──けれど、ボディタッチだけは非常に嫌い、腕を伸ばせば指先一本でも触れてしまう範囲には、他人を絶対に入れたがらない。

パーソナルスペースが非常に広く、またその領域は絶対的で──おそらく一日恣紫の様子を張り付いて監視していても、彼を中心にして半径2mの範囲に人間が入る瞬間は、きっと数えるほどしかないだろうと言うほどだ。

それどころか、彼は特別な用がない限り、人が集まる場所には頑として行こうともしない。

例え家に食べるものが何も無くなっても、やる事がなくて腹が立つほど退屈な時でも。

もっと極端な例えを出せば──恐らく恣紫は、何一つとしてモノが存在しない、狭い独房の中で永遠に過ごす事と、人が溢れた楽しげなテーマパークで一日遊ぶこと、どちらかを選べと言われたら、きっと前者を選ぶ。

──彼はいつしか、人間が溢れる往来を歩く時の気分を、”一歩ごとに、大量のウジ虫を踏み潰しているようだ”と語っていた。

だとすれば、ここは特に人の集まるカフェテリアだ。

きっと恣紫は今も、耐えがたい不快感を募らせているのだろう。

しかし、そのくせ──彼は、淫魔としての生態のせいで、人間の精気を吸わないと生きていけないという、どうしようもない矛盾を抱えているから、その点についてはどうしても哀れに思ってしまう。

幸いと言っていいのか、その美貌のおかげで食う餌には困らないだろうが──その分、かえって生きにくいだろうな、と。

彼と同じ人生を歩んだことも無い人間の、薄っぺらい同情ではあるが、どうしてもそう考えてしまう。

だって──ただでさえ、その口元をマスクからちらりと覗かせただけで、彼が最も嫌う、きゃあきゃあと昂った金切り声が、無数に飛び交うような美貌を持っているのだ。

彼はいつしか、自分に懐くような奴が嫌いだと、そう溢していたことを思い出す。

きっとそれは、少しでも恣紫の気を引こうと、喧しくまとわりつくような輩が、過去にどこかで居たからこそ吐いた愚痴なのだろう。

だからこそ、今はこの場所も静かだが──人間の声や足音、騒音にまみれた場所なら、尚更。

苛立つどころか、反射的にその首をねじ折り、二度と心臓の音すら鳴らせないようにさせられても、おかしくはない。

何故なら、彼にとって人間は、ゴミと同じだから。

例えば目の前で、人間の頭がトマトのように潰れたとしても、恣紫が何かを思う事はないだろう。

強いて言えば、臭いとか汚いとか、その程度だ。

今でこそ、彼はこうして、落ち着き払ってスマホを弄っているが──少しでも機嫌を損ねたら、僕なんていつでも殺される。

なにせ、彼は自分でもそう自称するくらいには、気まぐれで嘘つきな、悪魔だ。残酷なまでに美しい、邪神だ。

その力をもってすれば、この場にいる人間全員を──いや、世界を丸ごと、自分の手すら汚さずに滅ぼすことだって、赤子の手をひねるより簡単なのだろう。

世界に向けて、『死ね』と一言囁けば、いいのだから。

だから、僕は、彼の機嫌を損ねる訳にはいかない。

無礼を働くことは言うまでもなく、ほんの少し気分を害することすら許されない。

──けれど。

「……ん?解放してやれって?」

僕は頭を下げて、自我を失った彼らを、どうにか元に戻してやってくれないかと懇願する。

恣紫からすれば、ただの不快害虫でしかない、人間。

自分と比べれば圧倒的な下等生物であるそれらは、彼の立場になって考えると、本来は生かしておく必要性すらないはずだ。

彼は、何にも縛られない、真の万物の頂たる邪神だ。

誰も彼に命令できず、誰も彼を罰することができない。

当然だが、僕の頼みなど聞く必要もなければ、そもそも僕が恣紫の行動に口を挟む権利もない。

きっと、『うるさい』と思っただろう。

大嫌いで下等な人間ごときが、自分の行動に口出ししてきて、鬱陶しいと思っただろう。

もし彼の機嫌を損ねれば、僕の命はない。

もし彼が『永遠にその汚らしい口を閉じていろ』と、そう僕に脅しかけたなら、僕はそれに従うしかない。

──いつも通りの、心を偽るかのような、酷薄な笑顔。

すれ違いざまに挨拶でもする時のように、苛立ちも喜びも、何も感じられない、当たり前の表情のまま──恣紫はそっと、口を開く。

「いいよ」

──その言葉は、やけにあっさりとしていた。

彼らと同じ、ゴミのような下等生物である人間の僕からの、無礼極まりない一方的な懇願。

恣紫に何のメリットもない、ただの僕のワガママに対して、彼は──何の逡巡も、あるいはその対価を求めることもせず、ぱっと了承してくれた。

──その理由は、僕には分からない。

『俺のことを、居ないものとして扱え』

その命令は、声によるものではなかった。

けれど、恣紫は確かに、口を開いて、その喉から声を出していた。

しかし、僕の脳に届いたのは──もっと概念的な、テレパシーにも似た、何か。

だから、だろうか。

僕は、その命令に従わずに済んだらしい。

今も、僕の目の前に、恣紫は居て。

そして、彼に関する記憶も、何も消えてはいない。

──けれど、僕以外の全ては、そうではなかった。

その瞬間、止まっていた時が、動き出したかのように。

恣紫がここに来る、その直前の状況に、世界が巻き戻る。

きりの悪いところで途切れた会話も、定食が乗ったトレーを持ったままの手も、とっくに冷めたはずのスープの湯気ですら。

恣紫の命令により、彼は元からここに居なかったことになり──世界は、彼に言われた通り、その途中からお行儀よく、続きを行っている。

そうとしか表現することのできない、異常な状況。

そして、彼らの囚われた心を解放するどころか、それを完全に無かったことにして、丸ごとやり直すという荒業。

何事もなく事が済んだことに、胸を撫で下ろすと同時に──僕は、閉口する他なかった。

「はは……。ちょっと強引だけど、こうする他に方法がなくて、ね。困ったもんでさ、どうやら俺の魅了を魂から引っぺがすには、前提から覆さないといけないみたいなんだ」

世間話程度の、軽い愚痴を叩くように、苦笑い。

『面倒だ』とすら言わない、その彼の余裕ぶりを見て、僕は心底肝を冷やす。

心臓をばくばくと鳴らしながら、腕時計をそっと覗く。

──十二時三十四分。

彼がここに来る、その直前の時間だ。

──聞きかじった話によると、人類はどんな技術を使おうと、時を早く進めることはできても、時を逆行することは、理論上不可能らしい。

けれど、ああ、本当に──恣紫の前では、時間さえも無力なのだ。

世界の法則なんて、彼には一切、関係がないのだ。

それを改めて、まざまざと見せつけられて──僕は、胃の痛みと恐怖で、泣きそうな気分になる。

「……あれ、怖がらせたかな。んー……俺が言う事でもないかもしれないけど、さ……それ、飲んどいたら?」

けれど、あくまで恣紫は、親しげに。

僕の傍にある、アイスコーヒーのコップを指さし、眉をほんの少し下げて、困ったように笑う。

言われた通り、そのコップに視線を移すと──今までそこにあったはずの、よく冷えたガラスのコップは、どこにもなく。

並々と注がれたチョコレートミルクと共に、熱すぎない程度に温められた、見慣れない陶器のマグカップが置かれていた。

「なんかさ、この前どっかで見たんだけど……人間って、胃が痛い時は、牛乳を飲んで油分の膜を張るといいんだってね」

やはり、あくまでも彼は、僕を気遣うように。

なるべく穏やかに微笑みながら、静かに目を閉じ、気品あふれる仕草で、これまた先程まではそこになかった、白いバニラのクッキーを一枚かじった。

──そっと、カップを持ち上げて、匂いを嗅ぐ。

恐らくは普通の、何の変哲もない、ホットチョコレートだ。

「……別に、変なものは入ってないから、気にせず飲むといいよ」

びくりと、手が震える。

僕の警戒心が、表情から伝わっていたのだろうか。

釘を刺すように、彼は目を閉じたまま、そう言った。

多分、恣紫がそう言うのだから、これはただのホットチョコレートなのだろう。

彼に、嘘をつく理由はない。

例え、これに毒か何かが入っていても──それを知らされた上で、”それを飲んで死ね”と言われたなら、僕はそれに抗うことはできないからだ。

だから、その心配は、僕にはない。

けれど、同時に──恣紫が、僕に対して施しを与える理由も、一切存在しないはずなのだ。

あの、人間を蛇蝎のごとく嫌っている、恣紫が。

わざわざ、その手を煩わせて、僕に甘いドリンクを奢ってくれる理由など、どこにもありはしない。

その理由は、僕には──

「おいおい、さっきから、随分と酷い事を考えるよね?」

──脳が思考を紡いでいる途中に、それを鷲掴みにされたかのような、精神をひどく揺さぶる感覚。

一瞬、意識が吹き飛んで、脳が焼かれるかのように、額の奥の方が、ひりひりと熱くなった。

彼は、何もしない。

ただ座って、僕を見ているだけだ。

──じっと、見透かすような、深い瞳。

底なしの暗闇にも見えて、なおかつ煌々ときらめく、その紫水晶の光は、まるで銀河を覗き込んでいるような感覚に陥らせる。

ひたすら蠱惑的な、悪魔の眼差し。

それに、見つめられているだけで、どんどんと意識が、吸い寄せられてゆく。

太陽の光も、周囲の喧騒も、脳内から剥がれ落ちて、感じられなくなる。

ただじっと、色香の極まる瞳に、見つめられているだけで──何も考えられなくなり、じわじわと脳が蕩け、腰が砕けそうになる。

「それじゃあまるで、俺が人間だけじゃなくて、キミまで嫌っているような、そんな言い草……いや、考え草だ」

恣紫は、背もたれに体重を預けるのをやめて、テーブルから身を前に乗り出す。

今までの、感情の見えない微笑とは、全く性質の違う、粘着質な笑み。

口角をにちゃりと吊り上げて、機嫌がいいのか悪いのかは分からないが、とにかく興奮した様子で、言い聞かせるようにじっくりと、目線を片時も離さずに言う。

いつでも気だるげで、感情を態度に出さない恣紫の、滅多に見ることのない姿。

情動的で、抑揚たっぷりに、僕にだけ向けて語りかける、その行為は──僕にとっては、脳みそに向かって直接、彼の美貌や玉音という斧を、何度も何度も振り下ろされているにも等しく。

感情がミキサーにかけられたかのように、恐慌も歓喜も畏敬も憧憬も、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてゆく。

「違うだろう?」

心臓の鼓動が、滅茶苦茶なリズムを刻んでいる。

目を合わせては絶対にいけないのに、視線をどこにも外せない。

呼吸は、自分でも出来ているかいないのか、判別がつかず。

ただ、目の前がちかちかと明滅して、苦しい。

──ああ、そうか。

僕は愚かにも、恣紫の機嫌を損ねたから、ここで惨めに壊されるのか。

我ながら不思議なほどに、その結論は自分の胸の中に、すとんと落ちた。

彼が感情を剥き出しにしながら、僕にそれをまくし立てる意味が、それ以外にどう考えたって、説明できないからだ。

そう、そのはずだ。

そのはず、なのだが──彼は、何を血迷ったか。

「俺たちは、そう……”親友”じゃないか……♡」

熱い、熱いため息と共に。

ひたすら恍惚と、頬すら赤く染めて、目尻を歓喜に下げながら。

僕のことを、親しげに、愛着を込めて。

──親友、と。

確かに、そう、呼んだのだ。

ククク、と静かな笑い声を上げると共に、彼はその艶めく長い爪で、南京錠のネックレスを、ぴんと弾く。

それは、恣紫が極めて機嫌がいい時に行う、一種のクセであった。

何の変哲もない、百均で買った安物の南京錠。

柔らかな真鍮で出来ている、見せかけだけの簡易的なそれは──僕と恣紫が出会ってすぐ、入学式のあの日に、僕があげたものだ。

思えば、あの日から。

いや──初めて僕と目が合った、その瞬間から彼はずっと、僕を親友と呼んでいた。

それが何故かは、分からない。

恣紫が僕の何が気に入ったのか、何がそこまで彼の琴線に触れたのかは、分からない。

きっと一生、それを理解する日は来ないだろう。

ただ──今でもたまに、その時のことを思い出す。

そう──あの時の事は、どれもこれも克明に、覚えている。

忘れられるはずがない。

「それは、俺も同じだよ、親友……♡キミと出会って、俺の世界に、色が付いた瞬間……♡まさか、忘れられるはずがない……♡」

──びくりと、肩が跳ねる。

彼は、普段のような、空っぽの笑顔とは対照的に。

頬を軽く上気させ、熱いため息すら吐きながら、心の底から恍惚と、蕩けるような甘さで、返事をする。

──彼の美貌から必死に目を逸らして、黙りこくっていたはずの、僕に。

彼はよく、僕の思考に対して、直接返事をすることがある。

つくづく、人間離れした化け物だ。

きっと、この全能の悪魔にとっては、人の心を読み透かし、脳内まで丸裸にしてみせるなんて、造作もないことなのだろう。

そう、彼にとってその行為は、僕に人間と悪魔の絶対的な格差を見せつけるための、脅しや威嚇などではない。

それは人間で言えば、手慰みにペン回しをして見せるような、ただ何気ない、日常の一挙手一投足なのだ。

だからこそ、ひどく恐ろしい。

この男はやはり、どうしたって到底人間の手に負えない、厄災そのものなのだ。

身分違いどころか、存在の格の差も甚だしい。

百歩譲っても、僕達の間で成立する関係は、ペットと飼い主か、奴隷と主人といったところだろう。

僕と恣紫は、まさに月とスッポン。対等な友人になんて、絶対になれるはずもない。

けれど、それでも恣紫は──僕のことを、親友と呼び続ける。

──それはそれは、心の底から、陶酔しきった様子で。

「親友、ああ、親友……♡なんて、素晴らしい響きだ……♡」

ぞくぞくと、身震いすら起こしながら、彼は自分自身の胸を縛り付けるかのように、その長い両腕で掻き抱く。

湧き上がる歓喜に、見開かれた瞳孔。

鋭い犬歯をちらつかせながら、くつくつと沸騰したような笑い声を上げ、椅子がきしむほど首と背筋を仰け反らせ。

しかし、目線だけは片時も僕から離すことはなく、目だけでこちらを見下ろしている。

──豹変。

そんな言葉が、今の恣紫にはよく似合う。

「ああ、そうだ、キミは俺にとって、たった一人の、大事な大事な友人なんだ……♡」

不用意にも、何らかのスイッチを、入れてしまったのだろうか。

いつもの凛とした、カリスマのある立ち居振る舞いをかなぐり捨てて、氾濫する感情を剥き出しに。

時折、声すら震わせながら、彼は獰猛なまでに深く笑う。

張り詰めるような、息をのむ重圧に支配された、半径一メートル足らずのテーブルの上。

空気に染み込んでいくような、鈴の音のように静かで低く──そのくせ、聞いているだけで意識がくらくらするほど、蠱惑的な声だけが、満たされてゆく。

指先を軽く曲げて、机の天板を掻くことすらできないほど、重苦しい時間だった。

例えるなら、光が一切届かないほどの、海の底の底まで落ちて──その見えない水圧に、四方八方から雁字搦めにされ、腕の震えすら抑え込まれるかのような。

そんな、身体ごとぐしゃりと潰れてしまうほどの、圧力めいたプレッシャーが、どうしてか。

あの桔梗色の瞳に覗かれると、ずんと重く、心も体も鷲掴みにされるように、深くのしかかる。

だが、そんな、呼吸すらも忘れてしまう、重圧に満ちた空間の中でも、彼は。

ぎしりと椅子を軋ませながら、何も臆することなく悠然と。

僕だけを、見ている。

自惚れでも何でもなく──彼の荘厳な瞳には、今、僕しか映っていない。

彼はじっと、僕の目を見ている。

逸らすな、と言外に命じるように、強く妖しい光を込めて、じっと。

「キミが幸せなら、俺もまた幸せになれる、そんな特別な存在……♡唯一無二の、比翼連理の、偕老同穴の、運命共同体……♡」

じっと、ただじっと見つめられて、内心に広がる──憧れの異性に抱かれているような、心臓に疼痺を植え付けられる、もどかしくて苦しくも、何より心地よい、快感。

一目惚れのような、洗脳じみた心地を植え付けて、脳にぶわりと快楽物質をぶちまけられる、異常な感覚は──言葉にするならば、まさに『魅了』であった。

そう、例えるならばまさに、ゲームによくある状態異常の、それ。

今まで連れ添ってきた、命すら掛けるほどの固い絆で結ばれた、血縁以上の仲間すら──その手で殺してしまうほどの、深い深い、精神異常。正気の喪失。

色仕掛けという、ひどく単純で薄っぺらい、性欲以上の意味を全く持たない、ただ肉欲を煽るだけの行為であるはずなのに──その美女に命じられるまま、仲間に本気で真剣と殺意を向け、恍惚のまま斬り殺してしまうという、理不尽なまでの恋慕。

今まで僕は、ゲームでそれを見る度に、あまりにも誇張した表現だと、冷笑にも似た感覚を抱いてきた。

人間の敵である、悪しき魔物だと分かっている相手に、ちょっと凝視されただけで、喜んで仲間を殺すだなんて──いくらフィクションにしても、リアリティがない。

そう思っていたが──実際に、それに似た、いや、それを優に超えた感覚を植え付けられて、理解する。

今、僕は。

彼に命令されたなら、喜んで──この命を差し出す。どんな理不尽な命令も、受けてしまう。

きっと、恣紫が命令してくれたという事実に、むせび泣くほどの歓喜を覚えながら。

──やはり、恣紫は。

何か、生物として人間よりもずっと上位に位置する、淫靡で邪悪で、それでいて神性を帯びた何かだと。

これで何度目だろうか、そうして強く、またも確信した。

「ああ、そうだ、キミは特別なんだ……♡後にも先にも、キミだけ……♡世界でたった一人の、俺とおんなじ生き物……♡」

──周囲の喧騒が、いやに遠く感じる。

つい十分前──いや、彼らからすれば、ほんの一分ほど前になるのか──には、後ろで楽しそうに騒ぐ彼らから、あれほど僕は視線を集めていたのに。

今や、僕達のことなど、誰も気にすら留めていない。

その視界の中に、これほどまでに色濃い狂気を収めておきながら。

彼らはこれから、今まで暮らしてきた通りの、学生として自然な一日を過ごすのだろう。

講義を受け、友達と遊び、あるいは家に帰ってだらだらと。

──本当は、それが何よりも不自然なこととも知らないまま。

僕は、助けを求めることも、逃げ出すこともできない。

背筋に、甘ったるい寒気が走らせ、その後に遅れてついてくる、深い恍惚に身をよじり。

身体の内側から、こちょこちょと愛撫されているような、息が快楽に蕩ける感覚に、頭をとことん煮立たせながら。

「真っすぐに俺を見てくれて、正しく恐れてくれて、当然に嫌ってくれて、そして……そのくせ、心の中は隙だらけで、時折俺に甘えてくれる、甘えさせてくれる……♡ダメだなぁ、それが堪んなく、愛おしくって仕方がないんだ……♡」

雰囲気が、明らかに違う。

何と比べて、と言われれば──全てが。世界に存在する、森羅万象と。

あれは、間違いなく、この世に存在しない、あっていはいけない類の美しさだ。

人間を悩殺することを生業とする、悪魔そのもの。

色香一つで、国を乗っ取り傾ける、淫魔。

軽い流し目の一つだけで、人間をどこまでも食い物にする、エロティシズムの化身。

それが、玉座から傅く家来を見下ろすように、その長身から、じっと僕を眺めている。

こんなに凄艶な存在が、果たして、本当に実在するのだろうか。

確かな質量を持って、すぐ側に存在している恣紫に対して、そんな疑問すら抱く。

そして、その姿を、僕なんかの下等な存在が、瞳に映してしまうことすら。

僕にはそれが、ひどく烏滸がましく、無礼極まりないことだと、そう感じてしまう。

目の前の存在に対し、僕は本能的に、恐怖を抱いてしまっている。

早く、脚を揃えて、手を地面につけて、頭を床に擦りつけないと。

そんな、脅迫的な観念に、押しつぶされる。

──精神が、きしむ音を上げている。

さっきから、口の中が渇いて渇いて仕方がない。

「はぁ……♡良いザマだよね、ほんっとさ……♡最強の淫魔を、魔王を名乗っておいて、さ……たった一人の、弱くてちっぽけで、だけど俺を直視してくれる人間に、こんなに一目惚れして、シッポ振って懐いて……♡今まで生きてきた間に、そんな感情を抱いたことなんて、ただの一回きりもなかったし、これからも二度と誰かを愛することなんてないと思ってたのに……♡あーあ、俺のことながら、バカみたいだ……♡」

──かと思えば恣紫は、恋焦がれたように、机に上体を寝そべらせ。

まさに恋煩いという言葉がぴったり似合う、どこか辛そうにすら感じる面持ちで、目にハートすら浮かべながら、形のいい眉を目いっぱい額に寄せて、僕を見上げる。

恋しくて、恋しくて、恋しくて、恋しくて、堪らない。

そんな感情を隠そうともせず、溢れる脳内麻薬にトリップしながら、溶けたチョコレートのように甘ったるい蕩け声で──讃美歌を捧げるかのように、ある種の盲信を、まっすぐ僕に向けて示す。

──そういった意味では、僕達はどこか、似たもの同士なのかもしれない。

僕は恣紫に対して、ある種、信仰にも似たような、畏れや敬いを抱いている。

そして、恣紫もまた僕に対して、これほどまでに重い、執着心を見せている。

彼は、淫魔としての性分だろうか、気分によってころころと言動を変えることが多い。

興味が熱するのも早ければ、冷めるのも一瞬で、機嫌の乱高下も激しく、そしてひどく飽き性。

だから、彼の言葉は、信用してはならない。

彼は所詮、人間を誑かしては食い物にして、その様を軽蔑しながら嘲笑う、邪悪な淫魔なのだ。

それを、十分に理解した上で、なお。

僕は、どうしても──恣紫は、永遠に僕を逃がしてくれないと、そう確信している。

「でも、そのくせ抱きつこうとすると怖がられて、本気で拒絶する気もないくせに、腕の中からするりと抜けて、ちょこまか逃げられて……そんな、誘惑の仕草としては初歩も初歩、小馬鹿にされるような真似されて、追わせられて……♡はぁ……俺、こんな簡単に、本気にさせられちゃってるんだもんな……♡」

つまるところ、彼の言葉には、一切の嘘は含まれていない。

そして、その言葉を、気まぐれに撤回するつもりもない。

不老不死にして、全知全能の邪神が、僕に対して”本気だ”と、そう言っているのだ。

──ああ、そうだ、はっきり言おう。認めよう。

恣紫は──僕の事が、好きだ。

疑いようもないほど、僕に対して、強い好意を抱いている。

最大限の愛着を、そして、無防備なまでの全幅の信頼を向けている。

依存している。

僕が少しでも拒絶すれば、何をしでかすか分からないほど。

僕という存在そのものを、生きる意味だと思い込むくらい、依存しきっている。

──僕の事を、愛してしまっている。

「でも、仕方ないよね……♡だって、俺は、生きる事すら興味を無くして、何もかもを諦めてたところに、ようやく見つけられたんだ……♡俺の全てを捧げるのに、相応しいものを……♡」

どろりと、情欲に濡れた瞳が、ゆらゆらと炎のように揺れる。

空間ごと甘ったるくなるような、胸焼けを引き起こす視線。

今、僕の目の前に居るのは、確かに──人間なんて虫けら同然に扱う、邪悪な超自然的存在のはずだ。

狂気に至るほどに美しくもおぞましい、淫らな悪魔の王。

その有り余る色気は、粘りつくような重圧となって、今なお僕を苛み続けている。

僕の背筋には、死期にも似た寒気が、ぞくぞくと這いずり続け、危険信号を発し続けている。

神経を直接、蠱惑の炎で炙られているように、言いようのない猛毒じみた快感が、恐ろしく腰を蕩かし続けている。

こうして相対しているだけで、気管支が詰まって溺れてしまいそうになるほど、強く。

──大丈夫だ。僕は今、確かに恣紫が、恐ろしい。

理由も分からずに、僕に対して強烈な想いを向ける彼に対して、こちらも訳が分からなくなり、つい魅了されて想いを返してしまうほど、そこまでは堕ちていない。

そうだ。

彼が、僕をそこまで気に入る理由。

それが、未だに僕は理解できないのだ。

けれど、そのくせ──恣紫が僕を気に入っているという点に関しては、自惚れでも何でもないことは、理解してしまっている。

最初のうちこそ、それすら疑っていたものの、彼との付き合いもこれで一週間と少しになり、いい加減に骨身に染みた。

自分でこんなことを言うのは、極めて烏滸がましいことだが──恣紫は、僕のことが本当に、好きで好きで堪らないようだ。

こればかりは、きっと自惚れなんかではない。

だって、何よりも、そもそも──

「だから、さ……♡きっとキミは、キミだけは、”人形”になんか、なってくれないでよね……♡」

──僕は、未だに、彼の人形にされずに済んでいるのだから。

恣紫は、僕の人格を消したくはないのだ。

自分の言う事をどんなことでも即座に聞いて、敵意や嫌悪を向けない、物言わぬ人形。

黙れと言われれば黙り、失せろと言われれば失せる、都合のいい存在に僕を貶めることを、彼はどうやら好んではいない。

反吐を吐きそうになるほど人間が嫌いなら、下手に近寄ってきたり、不敬を働かれたりする者の心は、叩き折っておいた方が絶対に扱いやすいはずなのに。

だけど──そうしない。

言うまでもないが、それが出来ないのではない。

ほんの少しの誘惑で、いつでも思考を奪えるのに──あくまで恣紫の意志によって、僕は彼の支配から許されている。

そんなことをする理由は、今のところは思いつかない。

だって、恣紫は人間のことが嫌いなのだ。

誰かに頼まれたって、正面から話をするどころか、同じ空間に存在することすら嫌うのだから、それは僕も同じなはずだ。

僕は所詮、特筆するところのない、ただの人間なのだから。

けれど、そうではなかった。

初めて会った時、恣紫は僕に向かって、友達になろうと、確かにそう言ったのだ。

──分からない。

恣紫の全てが、理解できない。

「クク、フフフ……♡ああ、いい顔だ……♡親友は、笑顔も可愛いけれど、その苦虫を嚙み潰したような顔も、抜群にそそる……♡」

そして、僕が恐怖の感情を向けていると、そう知ってなお。

恣紫は、その不敵な微笑みを崩すことはなく、まるで仔猫に向けるかのような、慈しむ目線を送るだけ。

──僕の感情なら、彼は全てを肯定してしまう。

嫌悪も、あるいは性欲も、何もかもを尊いものとして扱い、もっとそれを向けてくれと、恍惚のため息と共に、僕に手招きを寄越すのだ。

恣紫の中で、僕はどれだけ、完全なものとして扱われているのだろうか。

マイナスの感情すらも、喜ばしいものとして感じてしまうなんて──人間同士の恋愛だとしても、並大抵の盲目さではない。

ましてや、その感情は、友人に向けるものでは、絶対にない。

そうだ、もし彼が本当に、僕に友情を求めているならば、そんな歪な好意は向けてきたりはしないだろう。

つまり、一 恣紫は──親友なんかではない。

彼すらも、きっとその関係を、望んではいないのだから。

だとしたら。

この淫魔は、僕に対して、何を求めているのだろうか──

「なぁ……そんなの、わざわざ言葉にしなくても、分かり切ってるだろ?♡親友……?♡」

──と、そんな思考に割り込んで。

恣紫はいよいよ焦れたように、自分の座っている椅子が倒れることも厭わず、がたりと勢いをつけて立ち上がる。

胸から上までしか見えない座り姿と違って、立ち姿になりますます強調される、その妖艶な腰のくねり。

やはりその身体は、男にしては曲線が多く、無性別な顔立ちと相まって、どうにも──”彼”というよりは、”彼女”のような。

未だに性別のはっきりしない、どちらでもなく美しい肢体を悩ましく火照らせ、恣紫はその両腕を広げて、宗教画の女神のように、逆光を浴びたまま僕へと語りかける。

心なしか、その吐息には熱がこもり、頬は紅潮して。

竜胆色の瞳にすら、薄紅色が混じる。

──見惚れる、なんて軽い言葉では、この感覚は到底語れない。

心臓に、何本もの赤熱した針を、直接叩き込まれているような。

恣紫の目に、意識が吸い込まれる。

いつの間にか、金縛りにあったかのように、手足はぴくりとも動かない。

「ああ、そうだ……俺がキミに求めていることは、たった一つ……」

そうして、いよいよ恣紫は。

僕に対して、その長い脚を向け、ゆっくりと歩み寄り──

──その瞬間、何かが後ずさる音が、恣紫のすぐ傍から聞こえた。

「……そっか、まだ、居たんだ」

それは、ぞっとするほど冷たい、殺意の込められた一言だった。

その瞬間、室内の気温が氷点下にまで下がるような、そんな感覚を覚える。

恣紫も、その興奮に水が差された様子で、地面が捲れ上がるような、強い苛立ちと共に。

腕をゆっくりと、腰の横まで降ろし、大きく開かれた瞳孔を細め、落胆と失望を表すように、釣り上がった口角を下げる。

──鞄を持たされたまま、恣紫に存在すら忘れ去られていた、荷物持ち扱いの女の子。

今までじっと、恣紫の機嫌を間違っても損ねないよう、息を殺してそこに潜んでいたのに、僕に言い寄る恣紫のあまりの気迫に、最悪のタイミングで怯んでしまったのだろう。

それに対して、恣紫は黙りこくったまま、冷酷な無表情で、じっとその女性を見つめていた。

「おいで」

そうして、ひとしきり睨んだ後、ふっと不気味に頬を緩ませ、いつも通りの貼り付けた笑顔で、女性に対して優しく落ち着いた口調で語りかける。

その招きを受けた女性の様子といえば、思わず目を逸らしてしまうほど、酷いものだった。

生まれたての小鹿のように、立っているのがやっとというほど、今にも腰が抜けそうな立ち姿。

腰を卑屈に折り曲げて、顔も挙げられないまま、必死になって呼吸をして。

その吐息の合間に、誰が見たって分かるくらい、歯をかちかちと鳴らすほど震えている。

けれど──そんな状態でも、絶対的な王である恣紫の命令には、絶対に逆らえない。

恣紫に預けられた鞄だけは、こんな時でも離すことなく、大事に大事に胸の中に抱えているのが、何よりの証拠だ。

そう──恣紫が何かを命じたなら、例えそれが天地自然の法則に逆らっていたとしても、絶対に遂行される。

彼女の意識と身体の両方が、限界だと悲鳴を上げていても、脚を止めることが決して許されないように。

ことごとく、無慈悲に。

せめて、これから親に叱られることを理解した子供のように、覚悟をゆっくりと決めながら、亀よりも遅い歩みで近づくことすら、はやり許されず。

苛立つ恣紫を、まさか自分などという矮小な存在が、お待たせしていいはずがない。

女性は、そんな強迫観念からか、ほぼ抜けかけた足腰からは想像もできないほど、異常なくらい自然に、こつこつと淀みなく恣紫の傍まで歩いてゆく。

酷薄なまでに美しく、夜色の瞳を煌めかせ、恣紫はただそれを眺めていた。

──止めるべきだ。

今、この場所に、恣紫を止められる人間が居るとしたら、それは僕しかいない。

けれど──どうしても、声が出ないのだ。

こんなにも、お腹に力を込めて、喉を震わせようとしているのに、金魚のように口をぱくぱくと開閉することしかできない。

そうして僕が、ひどく情けない姿を晒している間にも、女性は恣紫の下へと歩かされて──

「俺の為に、ずっとそこで待っててくれてたんだろ?なら……ご褒美、あげないとね」

不意に。

恣紫は、その右腕で、女性の胸ぐらをひょいとつかみ上げる。

その女性は、少し小柄だったが故に、恣紫の長身に持ち上げられるような形になり、地面に脚をつけることすらできない。

さりとて、まさかじたばたと手足を暴れさせ、恣紫の身体に蹴りを入れるなど、できるはずもない。

そもそも──いくら小柄とはいえ、成人した人間の女性を、まるで空の段ボール箱でも持ち上げるみたいに、片手で軽々と掴み上げるような化け物に対して、暴れてみたところで何になるだろうか。

極めて無防備な、何をされても防ぎようのない体勢。

このまま、力任せに地面に叩きつけるだけで──いとも簡単に、あの女性は。

全身の血管に、氷水を注がれたかのような、悪寒。

僕自身も、必死で恣紫に縋りつき、止めようとするが──やはり、足腰が震えて、力の入れ方を全て忘れてしまったかのように、立ちあがることすらできない。

くつくつと、剣呑な目つきのまま、恣紫は不敵に笑う。

その様子に、女性は、ギロチンの刃を首筋に押し当てられたような、確実な死に対する恐怖と──恣紫という、普通に生きていれば出会う事は愚か、妄想として思い浮かべることすらできないはずの、理想を超えた究極の異性に抱かれているという歓喜を、同時に与えられて。

人に見られているということすら忘れ、抵抗する様子も無く失禁し、口の端から軽く泡を吹きながら──それでも、その表情だけは、奇妙ににへらにへらと笑っているようだ。

──ほぼ、発狂寸前。

脳みその線がぷっつり切れて、そのまま心臓を止めてしまっても、何らおかしくない状況。

しかし、それでも彼女は──恣紫の鞄だけは、汚れないように大事に懐に抱き、幸せそうな笑顔を浮かべている。

恣紫は、そんな虫の息の女性を、じっと見下ろしたまま──心底、どうでもよさそうに。

退屈そうに、欠伸を一つ、噛み殺す。

そして、余った左手で、女性の頬を乱雑に掴むと。

彼は──そのまま、顔を思いっきり近づけて、強制的に、目線を合わせる。

至近距離での、凝視。

少し首を伸ばせば、触れてしまえるほどの近さで、穴が開くほどに、じっと見つめる。

途端──女性の身体が、びくんと跳ねた。

そのまま背骨が折れてしまわないかというほど、強く背筋を反らして、叫び声を上げながら。

がくがくと、全身で引きつけを起こすという、尋常ではない痙攣。

ぱしゃぱしゃと、地面に液体が降る音がする。

今度は、失禁して出た小水ではない。

それこそ、バケツをひっくり返したような量の──愛液。

内臓の水分を、全て絞り出しているのではないかというほどの、凄まじい量を出しながら、女性はもがき苦しむ。

声にもならない声で、喉が裂けてしまうほどに叫び、首を左右に振って暴れようとする。

しかし、いくら脳のリミッターを外して、筋肉や脊椎が損傷してしまいそうなほど藻掻いても、ただの人間程度の力で、恣紫の拘束から逃げられるはずもなく。

恣紫の、その瞳を見せつけられるだけで──女性は、足掻いて、藻掻いて、苦しみ抜く。

その壮絶な光景に、僕はもはや、声も出せない。

目の前の情報が、脳内で適切に処理できず、ただぼんやりと、何も見ていないかのように、茫然自失。

明らかな断末魔が響いているのに、どこか他人事であるかのように、それを漠然と眺めるしかなかった。

苦しいのだろう。辛いのだろう。

けれど──きっと、その苦しみの根源は、快楽。

脳を電子レンジに突っ込まれたかのような、じゅうじゅうと細胞を溶かす無造作な快感に、全ての神経が灼けついてしまっているのだ。

それが──淫魔である恣紫の、本気の魅了。

五秒も目を合わせれば、そのあまりの美貌により、人を発狂死させてしまう。

──二秒、三秒。

叫び声はみるみる小さくなり、手足の暴れすらも、次第に落ち着いてゆく。

しかし、当然だが、それはあの女性の精神が安定したからではない。

──ああ、そうだ、このままでは。

このままでは、あの女性は、間違いなく。

はっ、はっ、はっ、と。

夏場の犬のような、短く浅い呼吸しかできない。

僕が、僕が止めないと──

椅子から転げ落ちつつ、地面に必死に這いつくばり、何度も声を出そうと必死に口を開閉させる。

──恣紫、恣紫、恣紫っ……!

そう、呼び掛けているつもりでも、実際は──かひゅ、と、掠れた息が漏れるだけ。

そして。

ついに、女性の声は、途切れ。

恣紫の鞄ごと、腕をだらりと、力なく垂れ下げて──

──恣紫っ……!!!

「な・あ・に……♡」

──やっと、裏返りながらも、声を出せた、その瞬間。

耳元に唇が当たるほど、すぐ後ろから、恣紫の甘ったるい囁き声が聞こえた。

その女性を掴み上げる恣紫を、僕は確かに、瞬きもせずに見つめていたはずだ。

けれど、いつの間にか女性は、煙のように忽然と消えて──いや、今更、そんな事は言っても仕方がない。恣紫のことだ、言うまでもなく、淫魔の力を使ったのだろう。

それよりも。

「クク……♡心配するなよ、”ご褒美”だって言ったろ……?♡ちゃあんと、生きてるよ……♡脳みそも修復しておいたし、身体は医務室に寝かせておいた……♡放っとけば、そのうち元気になる……♡」

──何でもないように、恣紫は言う。

多分、嘘はついていないのだろう。

だって、その声色は──そんな話はどうでもいいと、そう言わんばかりに無関心だったから。

「当然だろ……?♡親友は、人間だもんね……♡大好きなキミの同族を、まさかキミの前で殺すなんて、そんな馬鹿な真似、この恣紫さんがすると思った……?♡」

ぬらりと、艶めく白磁の指が、首筋をすりすりと愛おしく撫でる。

粘着質で、束縛すら感じる、指の絡みつき。

あんなものはどうでもいいだろ、もっと俺を感じてくれよと、指先だけで恣紫はそれをねだる。

──ああ、きっと、彼はあの女性を、壊すようなことはしない。

僕に本気で拒絶されるようなことは、恣紫は絶対に、絶対にしないからだ。

とはいえ──今、確実に。

人間を一人、あと一押しで壊れるまで、追い詰めておいて──彼はこんなにも、指先を熱くしていたのか。

「あれは、気まぐれに与えてやった、俺の心からのご褒美……ああ、そうさ、ご褒美だ……♡この恣紫さんが、しかも人間に対して、だ……あんな慈悲を与えてやるなんて幸運、もう二度とないだろうな……♡」

──後ろから、背中に圧し掛かられる、所謂あすなろ抱きの、完全な密着状態だった。

頬をぴっとりくっつけて、時折すべすべと、肌のキメを擦り込むように、首を軽く動かして。

機嫌良く、喉の奥を鳴らすようにして、くすくすと笑う声が、脳の奥を直に揺らす。

ふわりと濃密に広がる、安っぽい芳香剤や香水とは、明らかに一線を画した、ムスクのような官能的な香り。

ひと嗅ぎしただけで、腰が震えて、膝が笑うような、妙にエキゾチックなフェロモンの匂いに、喉を鳴らす。

もはや、ただの確信ではなく、証拠をもってはっきりと示された、人を殺す蠱惑。

殺人級の、というよりは──即死級の美貌が、そして魅惑が、次は僕に向いている。

「……なあ、知ってる?♡肉食動物の狩りってさ、残酷なんだぜ……♡チーターも、ジャガーも、百獣の王であるライオンもそうさ……♡ひと噛みで命を奪うなんて、そんな事は稀なんだ……♡」

友人という関係にしては──いや、もし恋人であったとしても、あまりにも近すぎる距離感。

すりすりと、これ以上ないほど愛おしそうに、頭頂に頬擦りをかますその姿は──言い訳のしようもないほど、目の前の人間が”お気に入りのオス”であることを表してしまっている。

そんな体勢のまま、恣紫は、堂々と──その海外モデルのように高い鼻を、頭頂部に乱雑に突っ込んで、息を深く吸い込んだ。

少し変態チックなその行為は──嫌気が差すほど、背徳的な官能に満ちていて。

「喉に歯を突き立てて、圧迫してさ……♡じっくり、じっくりと……頸動脈からの失血と、呼吸困難によって、時間をかけて殺すんだよ……♡」

とんとんと、胸板を叩く、白魚のように透き通った、女性のように細長い指。

男を誘う、極上の娼婦じみた手つきは、いかにも嫋やかで、妖艶で。

そして──つつ、と。

長い爪の先で、切り裂くように胸骨をなぞり、指先はまた、首筋へ。

「考えただけで、苦しそうだろ……?♡でも、さ……それでも、獲物は、苦しまずに死ねる……それどころか、最期は脳がダメになるほどの、最高の恍惚と快感の中で、気持ちよく逝けるんだ……♡」

最も太い血管の位置を探るように、恣紫の指が、僕の喉元を這いまわる。

もう、僕の命は、恣紫の手のひらの中に転がっているも同然だ。

けれど、そんな状況ですら、恐ろしいのは彼の魔性ばかり。

溶かしたキャラメルのように、深みのある甘い声が、脳内に響くたびに。

背骨が、徐々に引っこ抜かれていくような、文字通りに骨抜きにされる感覚ばかりが、怖い。

「分かる……?♡生き物って、死ぬ直前には、さ……最期の救いとして、苦痛を感じるための脳みそを、自分の脳内麻薬でブッ壊すんだ……♡」

──ああ、知っている。

今、僕は多分、それの直前だからだ。

例えるならば、毒薬のガラス瓶を、底から炎で炙られているかのような。

──今、ぽたりと、ガラスの底が溶けて、理性が一滴、吹き飛んだ。

あと少しで、底が抜けて、どぱりと猛毒があふれ出す。

逃れられないし、抗えない。

「ククッ……♡つまり、さ……♡逝く直前の快感って、むしろ、窒息よりも先に、そのせいで死んじまうぐらい、すっげえ気持ちいいんだよ……♡脳の何もかも、心臓を動かすための信号を送るところも、呼吸を制御するところも、全部全部、止まっちまうぐらいに、ね……♡」

背中から、そして耳元から感じる、彼の体温。呼吸音。心音。

恣紫が、僕にこんなにもくっ付いているという、その証。

──ほんの少し首を回せば、あの狂おしいほど美しい紫色を、何より近い特等席で眺めることができる。

あるいは、熟れ切った果実のような、ぷるりと軟らかい、ラメ混じりの唇すらも。

僕が今、奴の全てを奪える位置にあるということを、嫌でも自覚させられて。

堪らなく、むらりとした心地を覚えて、生唾を飲む。

そして、手のひらから血が滲みそうなほど、拳に力を込めて握り込み。

くらくらと、定まらない思考のまま、その行為の意味も考えられず──僕の胸の前に回された、奴の腕を掴もうと、血迷いすらする。

「だったら、さぁ……♡もし、その死のトリガーが、多幸感によって引き起こされるなら……そんなに気持ちいいことって、この世にないだろう……?♡」

気持ちいい。幸せ。

──淫魔の魔性を、こんなにも間近で、溺れるほど浴びせられて、だんだんと脳がふやけてゆく。

恣紫の言っている言葉すら、ふわふわと雲をつかむように逃げていき、落ち着いたハスキーボイスが気持ちいいということしか分からない。

あれだけ冷え切っていた身体は、今は暑いのか寒いのかも曖昧で。

先程から寝転がっている地面も、冷たいのか温かいのか、それすらも分からない。

「文字通り、幸せ過ぎて死んじまうって感覚……それが、現実になった瞬間、脳内で馬鹿になっちまう快楽が、弾けて……クク……♡こんな”ご褒美”、一体、俺以外の誰が、与えられる……?♡」

ただ──気が付けば、地面は硬質のフロアタイルではなく、ふわふわの柔らかい綿布の感触になっていることは、辛うじて理解ができた。

それと、窓から差し込んでいた太陽の光が、薄手のカーテンに遮られ、緩やかな暖色に収まっていること。

嗅ぎなれた、恣紫のお気に入りのタバコの匂いが、室内に漂っていることにも、気づく。

ここは、大学のカフェテリアではない。

寝転び慣れた、自分のアパートの、ベッドの上だ。

「それも、わざわざ死ぬ直前のギリギリを見極めて、殺さないようにするなんて、七面倒な真似……俺の嫌いな人間に、わざわざしてやる理由も無い……。でも、今日の恣紫さんは、それをしてあげた……♡何でか分かる……?♡」

問いかけられて、ちらりと部屋を見渡す。

視界の端に見える、やけに趣味のいい、冷ややかな色合いのクリスタルガラスの灰皿。

それと、専ら恣紫が安いチューハイを飲むためにしか使わない、上品な切子の装飾入りのロックグラスに、テーブルの上で乱雑に散らばった、ステンレスのアイスキューブ。

僕は、お酒もタバコも嗜まないのに、気が付けば部屋中が、彼の私物でいっぱいになっていた。

浸食。

自室という、プライベートの最たる場所にすら、恣紫はするりと潜り込み、凌辱するかのように自分の証を付けて回る。

その最たるものが、今も僕がこうして身体を横たえている、安くて粗末なベッドだ。

僕が実家に居る時から──具体的には、中学生くらいの頃から使い込んでいた、寝慣れた薄い布団。

そこには、確かに──上玉の女の匂いが、濃く染みついていた。

そして、それが、それこそが。

彼が今、こうして極めて機嫌よさげに、”気まぐれ”を起こしている原因なのだろう。

「そう、ご明察……♡恣紫さんは、今、めっっっ……ちゃくちゃ、機嫌がいいんだ……♡」

ころころと、鈴を転がすかのように、悪魔が笑い、その中にちん、と金属音が混じる。

見なくても分かる。南京錠のネックレスを、爪で弾いた音だろう。

──似ている。

背後から、嫌というほど香る、ジャコウの香水のような、色気のあるエキゾチックな匂いは、確かにこの寝床で嗅ぎなれたものと、よく似ている。

生物が自然に出すにはどう考えてもあり得ず、作りものじみて理想的な、代謝を一切感じられない匂い。

それが、恣紫から香るものだとしたら──この布団に染みついているのは、それに加えて、むっと蒸れて甘酸っぱい、女くさい柑橘の匂いが混じり合った、そんな体臭だ。

恣紫がふわりと発する香りとこの匂いは、極めて似ているけれど、印象は真逆もいいところ。

性どころか生すら感じない、神秘的なまでに気品が溢れる、調度品じみた上品さと──直接ペニスにまとわりつく、どこまでも雌くさい、ただただちんぽに媚びるためだけの、娼婦じみた下品極まるフェロモン臭。

「ああ、そうだ、機嫌がいい……♡天にも昇るとはこの事だろうと思うくらい、最ッ高に気分がいいんだよ……♡近頃は、親友がこうして、俺の暇つぶしに付き合って、構ってくれるからね……♡」

じっとりと、甘える猫のように、顎をぴっとり後頭部に押し付けて。

そのすらりと華奢な喉から出るのは、ひどくいちゃついた、媚び声。

抵抗する気どころか、指を軽く曲げる気すらも失せるほど、甘ったるい。

その、安心するような、あるいは骨という骨が溶けていくような声にばかり集中して、脳みそを蕩かす快楽に、ひたすら浸っていたくなる。

「で、もー……♡今日はたまたま、親友のおかげで機嫌が良かったから、ああいう女にも優しくできたけどさ……♡」

するり、するりと、胸板で縁を描くように、指先が滑る。

恣紫が触れている場所から、染み込むような温かさが広がり、えも言われぬ幸福感と快楽が、胸の中に満たされる。

──恣紫は、やはり恐ろしい淫魔だ。

自分の気分と流し目一つで、人を殺すことも厭わない、この世に存在してはならないはずのモノだと、そう知っているのに──耐えられない。好きになることが、抑えられない。

警戒心だとか、恐怖だとか、そういったものを真っ向からへし折られて、蠱惑をひたすらに叩き込まれる、サンドバッグになってしまう。

──ぐらぐらと、揺れる。

このまま、恣紫に全てを委ね、何もかもを諦め、沈溺してしまいたくなる気持ちが、ふつふつと湧き出す。

「あんまり親友が、俺のこと嫌ってきたりー……♡俺のこと、ほったらかしにしてきたりしたらー……♡今度おんなじような事があったら、俺……拗ねて、目元が狂っちゃうかもね……♡」

くい、と。

僕の首を、後ろから持ち上げ、じっと目を合わせてくる恣紫。

声色だけは甘く、しかしその内容は、僕以外の全ての人類を人質に取った、恫喝。

従わなければ──今後、人間に対して、慈悲は与えない。

至極単純で、それ故に強力な、脅し文句だ。

しかし、そんな事を囁いておいて──彼の瞳には、嫌悪の欠片も無く、むしろ愛欲に染まり切っていて。

先程、一人の人間を殺しかけた、ナイフを突き立てられるような鋭さは、どこにもない。

優しく、愛おしく。

獣欲すら向けながら、彼は──いや。

「ね、親友……♡今日もさぁ、俺の”ご機嫌取り”、してくれよ……♡」

”彼女”は、女を堕とす殺し文句のように、そう僕に語りかけた。

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