導入案・3 (Pixiv Fanbox)
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──よく晴れた、春の日。
大学の中の、混雑したカフェテリアの端の席で、僕はぼんやりと小説を読んでいた。
この一室は、日がよく差し込むように作られており、なおかつパソコン作業もしやすいように適度に薄暗い。
エアコンにより、室温も常に適温に保たれており、居心地は抜群。
そのため、僕を含めた学生たちはこぞって、ここを絶好のたまり場として扱っている。
なにせ、今日だって僕は、講義も入っていないのに、大学までわざわざアイスコーヒーだけ飲みに来ているほどだ。
ここは、下手な喫茶店よりコーヒーが安くて美味しく、気兼ねなく長居できるから、本を読む場所としてとても優れている。
それに、この大学は、下宿先のアパートから歩いて行くには丁度いい距離だ。
ただでさえ家に籠りがちな僕としては、やる事がなくて暇な時、散歩がてら日光を浴びるには、このカフェテリアはこれ以上ない場所だった。
きっと、僕以外にも、そういう思考の下、ここを喫茶店代わりに使っている人は少なくないはずだ。
そのお陰で、運営も好調をキープしており、最近はその利益を使って、本格的なコーヒーメーカーも導入したらしい。
ドリンクメニューが増えた上に、単純によく好んで飲むアイスコーヒーも美味くなり、時間つぶしによくここを利用する僕としては、有難い限りだ。
──しかし、少し困った事もある。
新メニューの物珍しさや、飲食物のクオリティアップが相まって、ただでさえ騒がしく、人で溢れたこのカフェテリアに、ますます客が増えたように感じる。
人気があり、雰囲気もいい事は、もちろん褒められるべきことなのだろうが──静かな場所が好きな僕としては、少し鬱陶しいと思ってしまうのも、また事実だった。
ちらりと、手元の本から、腕時計に視線を移す。
十二時三十四分。
人がまた増えたと思ったら、ちょうど昼飯の時間だったのか、本を読むことに手中していて気がつかなかった。
心の中でぼやきつつ、僕はイヤホンを取り出して、ノイズキャンセリングの機能をオンにしてから、耳の奥に深くぐりぐりと差し込む。
そのまま、音楽を流すことなく、僕はまた小説の文字列に目を落とした。
──煩わしい雑踏が消えて、より深く没頭する。
叫ぶような話し声や、ばたばたと忙しなく駆ける足音、食器がかちゃかちゃと擦れる音。
今まで確かにあったはずのそれらが、耳栓代わりのイヤホンに防がれ、更に僕の意識が文字を追う事だけに集中したことにより──それを煩わしいと思っていたことすら、いつしか忘れてしまう。
けれど。
「……んー、どれもこれも、悪くないっちゃ悪くないんだけど……自分からわざわざ食いに行くほどって訳でもないんだよね……」
独り言ほどの、ほんの小さな声量。
例えここが、ごく静かな無音室であろうと、聞き取れるか聞き取れないかというくらい、ぼそりと密かに呟かれたその声は、唯一はっきりと聞き取れた。
──僕は暇つぶしに読んでいた小説から目を放し、その声のした方向をちらりと見る。
いつの間に、彼はそこに居たのだろうか。
まるで最初から、僕と連れ添ってそこに座っていたかのように、ごく当然に、音も無く──テーブルを挟んだ正面の位置で、肩肘を付きながら、退屈そうにスマホを弄りつつ独り言をぼやく、絶世の美男子。いや──美少女?
ぱっと見ただけでは、性別の区別すらつかないほど、格好良さも可愛らしさも極まった、この世のものとは思えない麗人が、手に持った液晶に流し目を向けていた。
この男は、いつだってそうだ。
神出鬼没を体現しているかのごとく、煙のように現れては、消えるように去っていく。
いつから隣に居たのかも、いつから僕の目から離れていったのかも、どうにも捉えられない。
まるで、勝手気ままな猫のような男だと、僕は勝手に彼に対してそう思っていた。
この男と知り合ったのは、ついこの間の出来事だ。
いや、それは出来事と言うほどのものではなく、ともすれば僕達は、知り合ったとすら言えないかもしれない。
──本当に、ただすれ違って、目が合っただけ。
大学に通う途中、この男がこちらを見て、その時に──ぱっと、機嫌が良さそうな顔になり。
それから、何故かは理解できないが、僕は一方的に、彼に付きまとわれるようになった。
半ばストーキングのようなものだと、僕は思っているのだが──しかし、それにしては、何かを要求するでもなく、ただ隣に現れるだけで、まるで意図が読めない。
ほんの少し世間話をして、それから時々遊んだりして──最近なんかは、僕のアパートに入り浸ったりもして。
合鍵も渡していないのに、外に出かけている僕よりも先に、僕の部屋のベッドに上がり込み、無防備に昼寝なんてしていて──そのまま泊っていくという事も、少なくはない。
今朝だって、大学に登校する時、僕は彼と一緒に家を出てきたのだ。
もっとも──ろくに講義を受ける気のない、放蕩者の彼は、大学に来るまでの道中で、いつの間にかはぐれていたのだが。
本当に、猫のような男だ。
彼のモデルじみて高い身長を無駄にする、くたりと無気力に折れ曲がった猫背を見て、ますますそう思った。
「……コーヒー、一口貰うよ」
──僕は確かに、訝しむように、じっと彼を観察していたはずだ。
だが、それからほんの一瞬、瞬きに近いくらいの時間だけ、目を離していた隙に──彼は、僕が飲んでいたアイスコーヒーのカップを持ち、勝ち誇るかのように、からからと揺すって氷の音を立てていた。
そして、こちらに一瞬、流し目を向けて。
何事も無かったかのように、僕の使っていたストローに口を付け、またスマートフォンを弄り始めた。
その仕草に、思わず心臓が跳ねる。
人ならざる雰囲気を纏った、性別も分からない、妖しげな美人からの、意味ありげな目つき。
何よりも、彼の顔立ちが──あまりに優れすぎているのが、何より心臓に悪かった。
それはそれは、触れれば切れてしまいそうなどに。
猟奇的なまでに美しい、横顔だった。
その、無駄の一切ない、端整すぎるほど端整な顔立ちは、比喩でも何でもなく──すれ違っただけの女性を、ともすればそういった趣味のない男性までも、片っ端から惚れさせるほどに、現実離れして恰好よく、有り体に言えば絶世のイケメンで。
しかし、シャープで細い鼻立ちや、婀娜めいて長いまつ毛、艶めいた肌に流麗な輪郭は、どこか女性らしい優美さも兼ね備えており、その妖しい色香に男すら惑わせる。
かと思えば、いつも腑抜けた猫背のまま、退屈そうに眠たげな表情を浮かべているくせに、どこか気を抜いているようで張り詰めた、自然体だからこそ野性的で力強い、雄らしい雰囲気があり。
そのくせ、一挙手一投足が、ぬるりと掴みどころがなく、いちいち腰つきの妖艶さや、伸ばした指先の遊女じみた反りが、一顧傾城の淫婦を思わせる。
──妖艶さも清純さも、淫靡さも神聖さもミステリアスささえも。
男性的な官能と女性的な艶が、そしてありとあらゆる魅力が、何もかも常人離れした練度で兼ね備えられており──冗談ではなく、一目見ただけでは、『彼』か『彼女』かも分からない。
中性的やボーイッシュなどという言葉ではとてもじゃないが語れない、まさに性差すら──いや、人間という種族の枠組みさえも、軽々と飛び越えた美の極致。
一 恣紫。
それが──僕の知り合いである、彼の名前だった。
──その名字は、漢数字の1と書く。
二の前が一だから、『にのまえ』。
それは、誰よりも頂点に立ち、二つとして並び立つものがない、覇者のみが許された数字だ。
そして、その名前は、”勝手気まま””欲しいまま”という意味の『恣』。
それと、彼のトレードマークの、差し色として数束染められた、前髪のメッシュと。
同じく奴の最大の特徴である、誰もかもを一瞥するだけで、ことごとく自らの従順な奴隷として、心ごと虜にしてしまう、魔性の瞳の、その色──『紫』。
それらを合わせて、『しし』と読む。
意図したかしていないかは分からないが、古来より地上最強の生物と呼ばれている『獅子』と同じ音で、彼の名前は構成されていた。
駆ければ風を切り裂き、吠えれば全てを屈服させ、戦えばその姿は──神にすらなぞらえられる、生きる幻獣。
百獣の王、権威の象徴。
走る姿は迅速勇猛、鬣の意匠は絢爛豪華。
強く、気高く、美しい、まさに王の中の王。それが、獅子だ。
──名は体を表すという諺が、古来から現在に至るまで、確かな事実として受け継がれているように。
名前とは、その人間の性質を表すための、最も手っ取り早いレッテルと言える。
そういった意味では、彼の名前は、どうしてだろうか──まるで未来を知っていたかのように、これ以上なく、彼の威容にぴったりと合った、正確な言葉で表されていた。
彼の名前を構成する言葉は、普通の人間なら、背負いきれずに潰れてしまうほど、重い期待を負ったものだ。
しかし──それでも、一度彼のその威容を見れば、まさにその通りだと思わせるほど。
その重すぎる重圧さえ跳ね除け、むしろ涼しげに乗りこなし──更には、その程度では、まるで彼を讃えるのには足りないとすら、心の底から思わせる。
彼は、その名の通り。
うっとりと溜息を吐くほどの、圧倒的な王者のカリスマと美しさを持つ、生まれつきの覇王、『獅子』であり。
思いのままに振舞うだけ、気まぐれなほどにやりたい事をやるだけで、その何物にも縛られない奔放さと、野生的な悠然さを──社会的な行動規範に従わなければ生きていけない、奴から言わせれば”弱者”となる人間に、圧倒的なまでの存在の格の差として見せつけ。
そして何よりも、ただただ鮮烈な、怖気が走るほどの色気により──野放図な放蕩ですらも、むしろ宙を自由にひらひらと舞う、エキゾチックな大翼の蝶のように見せ、誰しもをその深紫の色で魅了してみせる、『恣紫』なのだ。
名実一体という言葉を、これほど明快に証明してみせた存在も、そうはいないだろう。
そう唸らせるほどの、あまりにも圧倒的な傑物っぷりと、絶対的な王者の様相。
人を魅了して、従える事に関しては、間違いなく右に出る者はいないと言い切れるほどの、天賦の才を持って生まれた彼はまさに──人の身を外れた、淫魔そのものだった。
「カレー、スパゲティ、ラーメン、ハンバーガー……」
そんな恣紫は、すっかり気を抜いたように片頬杖をつきつつ、統一感のないファストフードの名前を、画面のスクロールに合わせ、つらつらと述べていく。
──そう言えば、今日は二人して、朝から何も食べていない。
彼の呟きの内容からして、そろそろ腹が減ったから、この近辺で外食できる場所でも探しているのだろう。
けれど──その口から出る単語は、彼にはまるで相応しくないと、そう感じてしまう。
何故ならば──彼の容姿、そして風格。
それらは、もはや神々しいとすら言えるほど、この世に二つとなく美しいものであったからだ。
だからこそ、これは本来、外野が口を出すようなことではないのだろうが──彼には、安っぽくパサついたバンズと、やけに塩っ辛いパティの、百円や二百円そこらのバーガーなど、絶対に相応しくないと断言する。
その、珠の音色を奏でる喉に、品格高い煌めきが乗ったグロスの唇に、ただ腹を満たすだけのジャンクフードが入るなど、あってはならないことだ。
そう、彼の口に入るべきは、たった一口サイズに切って焼いただけで、庶民がため息を吐くような値段が付けられる、最高級のシャトーブリアンの塊であり。
彼の血を構成すべきなのは、下手な人間の来客よりも丁重に、もてなすような待遇で何年何十年も熟成を続けられ、甘やかされきって寝かされた、特級ぶどうのヴィンテージワインなのだ。
──もちろんそれは、恣紫に魅了された者が言う、勝手な妄言でしかない。
飯ぐらい好きに喰えばいいし、彼が何を食べようと文句をつける筋合いも無いと、ほぼ全ての人間は、それを理性では理解してるものの──しかし、彼の纏う、威圧的なまでの王者のオーラは、人々の認知すら歪め、それを心から確信させてしまう。
恣紫の、殺人的な容姿の端麗さと、絶対的なまでのカリスマ性は──誰もかもを心酔させ、虜にして、やがては神や悪魔にそうするように、心から屈服し、崇拝させてしまうのだ。
そう、彼の眼差しは──人を殺す。
ただ、視線を合わせただけで、完膚なきまでに屈服させ、骨を抜き、心を壊す。
宵闇を凝縮して、一つの水晶に閉じ込めたかのような、彼の濃紫の瞳は──覗き込んでしまえば、二度と目が離せない。
脳の奥まで焼き尽くすような、強い多幸感と快感に犯され、無理やりに魅了させられてしまう。
眉唾どころか、作り話にしたって下手なものだとは思うが──信じられないことに、それは今にも現実に起こっていることで。
例えば、そう──恣紫の、すぐ三歩後ろ。
彼の傍らには──ロングスカートの美女が一人と、ニットパンツの美女が一人。
空いている席にも座らず、ただじっと、彼を見つめたまま、黙って立っていた。
ロングスカートの彼女は、いかにも利発そうな銀縁の眼鏡と、清楚ながらも華やかな、洒落たワンピースに着飾っており──仕事も勉学も、プライベートの遊びや恋愛も、何でもそつなくこなす、ハイスペックな女性という印象を受ける。
その体型も、すっきりとスリムな痩せ型で、脚も長くモデルのよう。
あまりこういった事を、ずけずけと上から評価してみせるのも大変失礼ではあるが──その顔もまた、アイドル並とまでは言わないが、合コンに出れば、男を好きなように選り好みできる程度には、綺麗に整っていた。
そして、ニットパンツの女性は、それとは対照的に活発な印象を受ける、茶髪のウルフカットに、シンプルな黒のトップスを合わせており──こちらはどちらかと言えば、大学生らしく快活に、スポーツやレジャーに励んでいそうだと、漠然とそう思った。
体格は小柄で、身長は小さいものの、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、まさにトランジスタグラマー。
こちらもまた、彼女さえ望めば好きなだけ恋人を作れそうなほど、非常に男性受けが良さそうな、人生で会った仲でもトップレベルの美女であった。
と、そんな二人は──何をするでもなく、両手に何やら荷物を抱え、ただじっと佇んでいる。
恍惚とした眼差しで、国宝を預かっているかのように──汚れや傷を一つでも付けようものなら、その場で舌を噛み切ってしまいかねないというほど、異様に張り詰めた面持ちで。
どこででも手に入るような、何の変哲もない、大量生産品の安物バッグの手を、ただ黙って握りしめていた。
彼女らは、一言も発さずに、空いた椅子に座ることも無く、ただ立っている。
まるで、恭しく主人に仕える、従順なメイドのような。
いや──それよりかは、一生を祈りに捧げ、経典に従うことだけを追求した、信心深い宗教家が、全能の神と対峙してしまったかのような。
そんな、狂気じみて強い歓喜と、絶対的な崇拝の感情を、彼女らの静かな微笑みと、柔らかな物腰の奥に感じて、背中に汗が伝った。
──彼女らが手に持っているのは、他でもない、目の前に座った彼の荷物だ。
その男は、二人の美女を奴隷の如く侍らせ、あろうことか学生だらけの大学のカフェテリアの中で、荷物持ちをさせていた。
もしそれが、彼によって強要されているのならば、あまりにも倫理に背いた、唾棄すべきクズの所業だ。
これだけ人目も多い場所だ、僕が彼を責め立てたら、多くの人が加勢してくれるだろう。
いや、その前に、そもそも──誰かがこの異常な光景を撮影し、ネットリンチにかけるためにSNSに投稿していても、何らおかしくはない。
今にも僕が振り返れば、ひそひそと後ろ指を向け、ゴミを見るような目線を向けている学生が、遠巻きにこちらを見ているはずだ。
そう──本来なら、そのはずだった。
僕は、ちらりと後ろを向く。
こちらを血走ったように凝視している、羨望を隠そうともしない、嫉妬の目。
男も女も、誰もかもが──荷物持ちの女たちに、嫉妬を向けている。
何故かと言われたら、当然。
彼の傍に侍ることを、許されているから。
あの淫魔じみて美しいあの男の、奴隷になりたいと。
誰もが、そう心から感じているからだった。
「んー、宅配ピザ、か……。結局これが楽なんだけど、昨日も一昨日も食べたから、流石に飽きてきたな……」
けれど、それでも。
そんな異常な空間の中で、数えきれないほどの人間から、寒気がするほど盲目的な崇拝の目線を浴びてなお。
恣紫は動じることもなく、むしろ一層気を抜いて、だらりと身を投げ出すように、テーブルの天板に上半身を寝そべらせていた。
その態度はまさに、この光景が、彼にとって日常茶飯事であることを表していた。
そもそも恣紫は──言葉通り、数えきれないほど多くの女性と、関係を持っている。
それは、いわゆるセフレの関係でもなければ、友人でもなく、ましてや恋人でもない。
ただ、恣紫が喜ぶように動き、恣紫にとって都合がいいモノになるべく動く──奴隷未満の家畜。
今もそこで、じっと黙って立ち尽くす、二人の女性のように──ただ、恣紫に尽くすことだけを生きがいにして、人生を恣紫のために使い潰そうとする人間が、少なからずここには存在するのだ。
例えば──こちらを嫉妬心丸出しで睨む、あの大勢の学生。
ああして、醜く鋭い目を向けるような真似は、恣紫は好まない。
そういった事をするのは、おそらくまだ取り返しがつく程度にしか魅了されていない、軽症の人間だ。
きっと、大学の構内かどこかで恣紫とすれ違い、その時に彼にちらりと流し目を送られたとか、その程度の関わりしかない者だろう。
その程度の人間を、恣紫は抱いたりはしない。
彼の傍に仕え、彼への奉仕を許される女性は──もっと意思を捨てて、ただの人形に成り果てた者だけだ。
本当に取り返しがつかないのは──ただ黙って、静かにこちらを眺め、恍惚としたため息を吐く女。
狂いそうな情欲と羨望を押し殺しながらも、決して恣紫の迷惑にならないよう、自分は背景に徹して、それでも恣紫の美貌から目を離すことができない。
──ただ座っているだけで、彼の蠱惑は、ここまで強く、人の心を俘虜にする。
まるで、剥き出しの核融合炉だ。
「ねー、親友。なんか昼飯の良い案ない?恣紫さん、考えるのもめんどくさくってさぁ……」
机の上に寝そべったまま、恣紫は甘えるような上目遣いで、こちらをじっと見つめる。
僕の事を、懐っこく”親友”と呼びながら。
まともな人間が食らったら──比喩でも何でもなく、一発で廃人になるくらい、ギャップの効いた可愛らしい仕草。
それでいて──恣紫を知る人間からすれば、絶対にあり得るはずがない、奇妙な姿でもある。
──僕で良ければ、昼は何か適当に作ろうか?
唇が震えそうになるのを、意識して抑えながら、僕は彼に向かってそう問いかける。
恣紫は、返事をする代わりに──僕以外からは誰にも見られないように、小さく、へにゃりとふやけた笑みを返した。
──恣紫は、その態度こそ軽薄なように見せかけてはいるが、その実、人嫌いをかなり拗らせており、その点では非常に頑固だ。
自分に話しかけてくる相手には、苛立った態度を取ることはないが、必要のない会話には応じようともしない。
また、セックスは不特定多数の人間と、毎日と言っていいほど欠かさず行うくせに、ボディタッチは非常に嫌い、腕を伸ばせば指先一本でも触れてしまう範囲には、他人を絶対に入れたがらない。
パーソナルスペースが非常に広く、またその領域は絶対的で──おそらく一日恣紫の様子を張り付いて監視していても、彼を中心にして半径2mの範囲に人間が入る瞬間は、きっと数えるほどしかないだろうと言うほどだ。
生きにくいだろうな、と。
彼と同じ人生を歩んだことも無い人間の、薄っぺらい同情ではあるが、どうしてもそう考えてしまう。
だって──そんなルールは、彼の優れきった容姿では、守り切れるはずがない。
ただでさえ、その口元をマスクからちらりと覗かせただけで、彼が最も嫌う、きゃあきゃあと昂った金切り声が、無数に飛び交うような美貌を持っているのだ。
恣紫が、自分に懐くような奴が嫌いだ、と、いつかそう溢していたことを思い出す。
きっとそれは、少しでも恣紫の気を引こうと、喧しくまとわりつくような輩が、過去にどこかで居たからこそ吐いた愚痴なのだろう。
だからこそ、だろうか。
今の恣紫の周りには、彼が不快に感じるような、耳障りな人間は一人もいない。
今日だって、そうだ。
昼時のカフェテリアは満席で、見ず知らずの相手と相席になってしまっている人や、立ってサンドイッチを食べている人すらも居るのに──僕達が座っている席の、周囲一マス分の席は、ガラ空きになっている。
おおよそ数えて、半径5m。
その距離は、必ず空席にしておくという不文律が、この空間には存在していた。
──何も、恣紫がそう命じた訳ではない。
むしろ彼は、例えそれが自分の近くであっても、椅子に座って食事する程度は勝手にすればいいと、許可さえ出している。
いや、そもそも──席を空けろと命令する権利なんて、元々ただの利用者である彼にはないはずだ。
だが、皆が勝手に、恣紫に媚びるため。
集団心理に気圧されて、誰も座らないから気まずくて座れないから、などという消極的な理由ですらなく──恣紫の機嫌を損ねないために、そうしているに過ぎない。
──もっと言えば、彼に仕えている女性たちだって、そうだ。
恣紫が自分からセフレを募集したことなど、一度だってない。
ただ、恣紫のあまりの美しさから、過度のストレスに自我を喪失した人のように、半ば発狂してしまった形で──相応の貢ぎ物を持って、女性が跪きに来るだけ。
どうか、自分の財産も、自分の身体も、自分の心も、全てを貴方のために捧げることを許してほしい、と──勝手に、彼に頼み込むのを、恣紫はほとんど嫌々、受け入れているだけだ。
大学生活、一年目の春。
入学式から一か月あまりという、たったそれだけの時間で、目の前の恐るべき男は。
この大学中を、自分の城として扱えるほどに──掌握しきっていた。
「……なんかさ、こういうのって、食事の時だけじゃなく、結構ありがちだよね。選択肢が多いと、かえって選ぶのが面倒くさくってさ……もう、いっその事、誰かに丸投げしてしまいたくなる」
かつかつと、彼の長い爪がスマホの表面に当たり、耳心地の良い音を出す。
それと共に、透き通るように静かな声が、騒がしいカフェテリアの中を、染み込むように通ってゆく。
決して、声を大きく張り上げている訳ではない。
ただ、彼の透き通るような声は、張り詰めた糸を弾くように、どこまでもよく響くというだけだ。
──そして、彼の声は、ただ通りがいいだけではない。
それを聞くだけで、鼓膜から直に脳を愛撫されるかのような、恐ろしいまでの妖艶さが伴っている。
コールタールのようにどろどろと粘ついて、それでいて鼓膜にへばりつくほど甘ったるくて。
かと思えば、鈴の音のように爽やかで、いちいち腰に響くほど蠱惑的な、不可思議な音色のハスキーボイス。
その魔性の声を以てして、何事かを囁かれたなら──もう、それだけで、脳が溶け尽くす。
そんな、致死の猛毒じみた、あまりにも危険なカリスマ性が、彼の声には確かに備わっていた。
「……今日だって、そうさ。もちろんお腹は空いてるし、折角なら美味しいものも食べたいけど、いちいち頭を使いたくなくて、結局いつも通り、キミに決めてもらった」
彼は、手に持ったスマホの電源ボタンを、軽くかちりと押し込んで、ポケットにしまった。
どこか憂鬱げな、陰のある明眸が、流し目に窓の外を向く。
──あまりにも深い蠱惑を宿した、アメジスト色の瞳。
一目と見れば、正気を失ってしまいかねないほど、超越的な魔性を感じさせるそれが、窓から差し込む光に照らされて、宝石のように瞬いた。
少しは慣れたと思っていたが、彼のその姿を見ると──ぶわりと全身に鳥肌が立ち、脂汗が流れ落ちる。
その横顔は、あまりにも綺麗で、むしろ世界の理を超えた、不気味な化け物の姿とすら思えてしまう。
あまりにも完璧すぎて、不自然。
艶美を極めすぎていて、恐ろしい。
それは、例えるなら──超自然的な存在に対して抱く、畏れや敬いにも似た感情だった。
そう──もしも、天使や女神というものが、本当に存在するのだとしたら。
あるいは、悪魔──もっと言えば、人を誑かして堕落に導く、淫魔というものが、もし人の世に降り立ったなら。
それはきっと、目の前の彼のような姿をしているのだろうと、漠然とそう思えるほどに。
「多分……本当は、興味がないからなんだろうね。食事だけじゃなくて、生きる事に関する全てに、さ」
退屈そうな目で、自嘲するかのように、彼は乾いた笑い声を上げる。
そんな、何もかもを諦めたような、無気力な姿ですら──人を堕落に導く淫魔を思わせるほど、寒気がするほど美しい。
その、どこか淫蕩な、底なしの沼を思わせる蠱惑は、くらくらするほど深い紫の、彼の瞳によって生み出されているだろう。
──人の顔の印象は、おおよそ八割が、目の形により付けられるものだとされている。
そういった意味では、恣紫のその瞳は、彼の圧倒的な美しさの根源と言える。
細く切れ長な、甘く釣り上がった瞼。
きつい印象は与えないが、決して人懐っこくもないその形は──誰かに好意を抱かれても、その相手を拒絶することは無いが、決して心を開くこともない、彼の独特の距離感を表すようだ。
眠たげに目を細め、柔和に微笑んでみせても──その実、心の底は冷え切っていて、他人には何の情も抱いていない。
ある意味で、明確に嫌悪を剥き出しにされるよりも脈がなく、どんなに刺々しい言葉をかけられるよりも冷酷な、諦観。
人間よりも遥かに上位の存在、例えば神や悪魔がそうするように──端から自分以外の生命全てを下等な存在だと見限るような、傲慢で高圧的な視線は、しかしどこか寂しげで。
だからこそ、人々はその眼差しに畏怖を抱き、崇拝の感情を向け、そして──その視線がいつか、自分に向いている時に、ほんの少しだけでも温かくなることを夢想するのだろう。
「だからさ、必要なことは全部、誰かがやってくれればいいのに、なーんて思うんだよね……。そしたら俺、なーんにもせずに、遊んで暮らすのにさ……」
だらけた姿のまま、恣紫は僕の目を見て、縋るようにそう言う。
宝くじで数十億円を当てるような、できっこない下らない夢を語るみたいに、やはり自嘲気味に笑いながら。
──もしもそれを語られたのが、僕以外の人間だったなら、二つ返事どころか、彼がそう言う前に、彼の全てをお世話しようとするのだろう。
ただでさえ、彼の周りには、そういった人間で溢れている。
それは、わざわざ僕に向けて、そんなニュアンスで言わなくとも、じっと黙っているだけで叶う願いだろう。
僕は、訝しみながら、そう返事をした。
「……ま、そうだね。でもさ、俺……イヤだよ。俺以外の生き物が、ずっと俺の傍に居るのとか、耐えられないよ。死んじゃう」
──耳を澄ますまでもなく、いやに透き通った彼の声は、誰にだって届いているはずだ。
彼の後ろで荷物持ちをしている女性はもちろん、僕らとは食堂の対角の隅っこに座り、黙ってカレーを貪っている学生ですら。
だからこそ、彼のその言葉は、残酷なまでに、全員の心を折ったはずだ。
お前等に世話されるなんて、死んでも御免だ。
命を捧げてもいいとすら思っている、熱烈な信者に向かって──オブラートに包みもせず、そう言い放ったのだから。
だが、僕の予想に反して──この場の空気が冷えるようなことは、一切起きなかった。
まさかとは思うが──それすらも納得した上で、彼女らは恣紫に魂を売ったのか。
そして、目の前のこの男も、それを知った上で、彼女らを扱っているのか。
僕は、生唾を一つ飲み込んで、口元を強張らせる。
きっと他人の人生なんて、心の底から、彼はどうでもよく思っているのだ。
目に見えるところで破滅しようが、その事に感情を動かされることは、絶対にない。
肝を冷やしながら、僕はほぼ溶けた氷だけになった、手元のアイスコーヒーを一口呷った。
──しかし、だからこそ、疑問が残る。
だったら何故、そんな理想を、僕に向かって打ち明けたのか。
あれは確かに、僕に何かを求めているかのような──つまり今回なら、僕に『養え』と求めるかのような態度だった。
だが、同じ屋根の下暮らすどころか、話しかけられることすら強く嫌悪する彼が、まさか僕にそれを求めるなんて──
「キミは、特別だからだよ」
──心を読んでいるかのような、一言。
脈絡なく告げられたその言葉に、僕は心臓がひっくり返りそうになるほど驚いて、コーヒーカップを手元から取り落とす。
大きな音を立てて、陶器のカップが割れると──恣紫は、心から可笑しそうに、くつくつと静かに笑う。
そんな様子に、ますますぞっとしつつ、カップの破片を掃除しようとすると。
いつのまにか、床は綺麗に掃除されており──顔を上げると、箒とちり取りを持った二人の女性と目が合う。
そして、呆気に取られた僕は、感謝の言葉を言う暇も無く、恭しい一礼を受け取ったまま、黙って地べたを見つめていた。
眺めても眺めても、陶器の粒一つ残ってはいなかった。
──理由は分からないが、恣紫に懐かれていることは、とっくに知っていた。
それはそれで、何が切っ掛けかも分からず、不気味ではあったが──嫌われてるよりはよっぽどマシだと、そう自分に言い聞かせることができた。
だが、近頃は、何故だろうか。
彼の取り巻きにすら、恣紫に対するそれと近しい目線を向けられているような、そんな気がしてならない。
いや──気がするではなく、きっと、そうなのだろう。
恣紫から最も近い場所で、誰もが喉から手が出るほど望んでいる、利害関係のない雑談に興じているのに、誰からも疎まれるような目線を向けられないのが、何よりの証拠だ。
どうしてか、恣紫と多少喋れるだけの身分の僕が、恣紫と同格に扱われ、遠巻きに見られているような感覚。
世界が遠ざかっていくかのような、世界から切り離されていくような──不思議な薄気味悪さと、悪い予感に満ちて、何もかもが恐ろしくなる。
「……親友はさ、世界でたった一人だけの、親友なの。後にも先にも、キミだけ。俺の世界に、俺とおんなじ生き物は、キミしか居ないんだ」
肘をつき、頭を手のひらに乗せたまま、僕だけを見て、彼は言う。
僕だけを、見ている。
自惚れでも何でもなく──彼の荘厳な瞳には、今、僕しか映っていない。
度々彼は、僕に向けて、じっとりとした執着を向けることがあった。
しかし、僕はその目を向けられる度に──責められているような、そんな気分になってしまう。
何故なら僕は──恣紫が蛇蝎のごとく嫌っている、雑多な信者たちと、本質的には同じだからだ。
こうして喋っている時も、僕は何でもないような顔をして、彼が望むように、普通の雑談相手として振舞ってはいるが──本当は、その魅惑の美貌を見るたびに、その妖艶な声を聴くたびに、背筋が痺れ、脳が焼け爛れているのを、ただ黙っているだけ。
ため息を吐きそうになるのを、ただ静かに、耐えているだけだ。
だから、僕はいつも、彼に話しかけられるたび、騙しているかのような後ろ暗い気分に駆られる。
恣紫が僕のことを、何故か高く買っている理由は、きっと──僕がただ、彼の威光に圧倒されず、人形のようなイエスマンに成り下がらない、気兼ねない雑談の相手になってくれるからだという事は、何となく察していた。
けれど、僕がそうしているのは、そういった普通の関係が、彼にとって望ましいものである事を、知っているからだ。
だが、僕の表情を一皮剥けば、すぐ後ろで彼の荷物を持っている、彼の嫌いな『人形』と同じになる。
それを──果たして彼は、知っているのだろうか。
「……だから、そうか。さっき言ったのは、間違いだ。本当は、ね」
──知っているのだろうとは、思う。
そもそも彼は、ただ顔がいいだけで食っている、そこいらのホスト崩れとは違う。
その容姿だけではなく、知能も膂力も精神力も、そこいらの人間とは比べ物にはならない。
恣紫はよく、冗談交じりに自分のことを”最強で無敵で天才だ”などと評することがあるが──実際に彼は、どの側面を見ても人間離れした、才覚だらけの怪物なのだ。
人の心を読み透かし、脳内まで丸裸にしてみせるなんて、きっと造作もないことなのだろう。
──それでも。
彼は、僕に向けた視線も、執着も、逸らすことはない。
「生きるために必要な事は全部、”キミ”がやってくれればいい。俺はただ、キミの傍で、ゴロゴロしてるから、さ」
彼はじっと、僕の目を見る。
目線を外すな、と言外に命じるように、強く妖しい光を込めて、じっと。
「ちなみに俺、けっこう本気だよ」
──ともすれば、プロポーズとすら取れるほど、真っすぐな眼差しと、飾りのない言葉。
彼はいつも人を従え、不遜な王として君臨しているからこそ、その言葉にはいつも嘘偽りはない。
世界中の誰よりも偉い俺が、わざわざ他人の顔色を窺って嘘を吐くなんて、そんな無駄なことをすると思うか?──と、いつか恣紫が、そう語っていたことを思い出す。
その言葉が本当なら、彼は今も、ただ正直に、自分の望みを僕に伝えているのだろう。
そう考えると──これは、恣紫にとっては、あり得ないイレギュラーだ。
普段の彼は、いちいちご機嫌を伺うような輩を嫌い、世話を焼かれる事すら好まない。
今も彼に侍り、雑用をするために周りにひっつく女性たちも──本来は、にべもなく断られるはずだったのを、一応彼なりに気を遣って、そこまで強く願うならと、傍仕えになることを許しているだけなのだ。
それを──僕ならば、どれだけ近くに居てもいい。
気を抜いて、無防備な寝姿を晒しても、構わない。
そう語っているのだから、これは彼なりに最大限の愛着の表現なのだろうと、そう解釈するしかない。
──恣紫は、目だけは笑っていない、貼り付けたような微笑みのまま、黙って僕を見つめていた。
そうして、五、六秒ほど静止して──ふっと、ようやく目元を緩めて、くすりと声を溢す。
「……ま、そこまで嫌だって思うんなら、しょうがないけど」
にこにこと、ひたすら上機嫌に、彼は続けてそう言った。
──僕にとって、それが堪らなく恐ろしくて、嫌だったことを見抜きながら。
もちろん、彼の事が嫌いだとか、そう思っている訳ではない。
ただ──耐えられない。
一 恣紫という、艶美と淫蕩のカタマリが、ずっと傍にある事が。
──言うまでもなく、彼自身は、ただの女好きな男であり、野郎に対してそういった感情を持つことはない。
だから、この誘いにそういう意図はないことは、火を見るよりもだろう。
──普通に、考えれば。
「……あー、もしタダ飯食らいが嫌なんだったら、さ。めんどくさいけど、払えるものくらい、ちゃんと払うよ?」
ぱん、と。
両手を合わせ、彼は何かを閃いたかのように、演技がかった口調と動作で、僕に問いかける。
いつも冷めた彼には似合わない、心から愉快そうな表情と声のトーンで。
──そのまま、彼はずいとテーブルから身を乗り出して、こちらに顔を近づける。
だぼついたオーバーサイズのジャケットと、これまた襟元の緩いインナーから、病的なほど白い胸板が覗いた。
「例えば……そう、”私”のカラダとか、さ……♡」
そして──彼が口を開く、その一瞬。
まるで外界と僕達だけが切り離されたかのように、ぴたりと周囲の音が止み、二人の声だけが残る。
自分の呼吸の音や、心臓の鼓動までもが、痛いほど自分の鼓膜に響いて、くらりと意識が傾いた。
そのまま、視界までもがぐらりと揺れて──気が付けば、僕の目の前の、細身ゆえに薄めの胸板。
肩幅も小さく、脂肪も一切ついていないはずの、その場所には。
──ずっ……しりと。
テーブルの面積を、卑しくどっかり占領する、乳肉の塊があった。