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【コラム】僕とMOTHER2と創作の話 (Pixiv Fanbox)

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昨日、8月27日はMOTHER2の発売日でした。今年で29周年だそうです。

本当は当日中に記事にしたかったのですが…なんなら来年にしたほうがキリが良いのですが、筆が乗りそうなので久々に文章を書いてみます。

MOTHER2、ご存知でしょうか。古いゲームですが、スマブラにも登場しているので、若い方でもゲーム好きなら名前くらいは知っていると思います。糸井重里さんが製作された、94年発売の名作RPGです。この記事ではゲームの内容についてはあまり語りませんが、少しでも興味を持たれた方は、現在Switchオンラインで配信されていますので是非プレイしてみて下さい。「2」からで大丈夫です。僕は幼い頃に遊んだこのゲームに凄まじくのめり込み、人生に絶大な影響を受けました。MOTHER2なくして今の僕はありません。オタク趣味にも目覚めず、絵も漫画も書いていなかったかもしれません。ここから、そんな僕とMOTHER2のことを書いていきたいと思います。

MOTHER2との出会いですが、これがさっぱり覚えていないのです。遊んだのは発売から少し経ってから、小学校4~5年の頃だったはずです。昔からゲーム小僧ではありましたが、最新ゲームの情報を集めるようなことはしていなかったので、親が何か買ってくれるというときに、なんとなく選んだゲームだったんだと思います。

大変な衝撃でした。グラフィック、キャラクター、言葉、音楽、世界観…ゲームを構成する全てに惹かれました。この作品の、何か…関連する何かが欲しい。身近に置ける何かが。見識を深めるようなものが。初めての感情でした。コレクター魂、オタク心の芽生えです。

そうだ、攻略本!僕は本屋に走りました。当時はいろんな出版社から同じゲームの攻略本がたくさん出ていて、一体全部で何種類の攻略本が出ているのか、インターネットも無かったので、簡単に知る術はありません。でも、売ってるものは全て集めたい…。自分で行ける範囲の書店、古本屋、ゲーム屋の攻略本コーナーを巡り、存在するかもわからない関連書籍を探し求める日々が始まります。ある日、偶然久美沙織さんのノベライズ版を発見します。文庫本の棚にMOTHER2の文字を見つけたときは目を疑いました。嬉しさのあまり毎日持ち歩き、ボロボロになったので買い直した程です。古本屋でコミカライズ作品を見つけた時には飛び上がって喜びました。ゲームブック、そういうのもあるのか。ゲーム屋を何軒もハシゴして、ファミコン版の初代も買いました。サントラCDの存在を知ってからは、CD屋にも通い詰め…。

およそすべての出版物を集め終わった頃、この熱量は次のステップへと進みます。

■創作意欲のめばえ

買い集めた本の中には、数は少ないですがアンソロジーコミックもありました。それまであまり馴染みのない種類の漫画でしたが、大勢の漫画家が各々の感性でMOTHER2の漫画を描いている。クリアしてしまったゲームの世界がまだ広がっている!僕はなんだか憧れを感じました。漫画家を目指そうなどとは露ほども思いませんでしたが、とりあえず漫画家が描いたキャラクターの絵を模写してみました。けど人物の絵なんて、難しくて書けるはずがありません。でも「どせいさん」なら。どせいさんの正面顔と横顔なら書けそうです。僕は毎日どせいさんの絵を描いて、たまに吹き出しとセリフも描いて、ひどくつまらない漫画のようなものを作ったりしていました。

※当時パソコンで描いたどせいさん

そうしているうちに、この創作意欲が自分の中だけでは収まらなくなります。MOTHER2の素晴らしさを周囲に布教したいという気持ちもありました。今ならSNSにでも書けば良いのですが、当然そんなものはまだありません。僕は小学校のクラスで図工係をやっていたので、その活動ということにして壁新聞を作ることにしました。新聞といっても、ペラ紙1枚の中に、クイズやおもしろ記事、漫画などを織り交ぜたお楽しみプリントです。勿論MOTHER2コーナーもあります。メインキャラクターはどせいさん。僕はこれを、ほとんど毎日のように製作し、教室の壁に貼り続けました。せいぜい仲の良い友達数人しか見ていなかったと思いますが、僕はとても満足でした。実際のところ、新聞に描くネタはすぐ枯渇し、意味不明な絵で余白を埋めたり、時には手近な雑誌の読者コーナーの面白い投稿などを丸パクリして寄せ集めたような代物だったのですが…。

※発掘された実際の壁新聞の一部。かなり後年のもの。コボちゃんの漫画だけ絵が上手いので多分何かの模写でしょう。どせいさんもクリーチャーと化しているし、全体的に意味不明で恐怖を感じます。脳が破壊されそうです。

ここで少し脱線しますが――少し遡り、小学校3年生くらいからでしょうか。僕は街のパソコン教室に通っていました。PC-9801が主流の頃で、当時の小学生としてはずいぶん先進的だったと思います。確か中学校のはじめくらいまで通っていたのですが、この教室がとても楽しいところで、基本操作は勿論、パソコン通信、マウスでお絵かき、MIDI製作、ツクール系のソフトでゲーム作り、簡単なアニメーション製作、果ては3DCG製作にプログラミングまで、広く浅くではありますが、パソコンでできる一通りのことを体験させてもらいました。Windows3.1やインターネットの登場に立ち会えたのは貴重な体験だったと思います。余談ですが、この教室のパソコンには何故か「プリンセスメーカー2」がインストールされていて、授業が始まる前によく遊んでいたのを覚えています。これもひとつの、僕の萌え原体験かもしれません。

そういえば、教室の授業の一環で作ったクソみたいな絵が県のCGコンテストで下の方の賞を取り、5万円分の図書券を貰ったことがありました。どう考えても賞が貰えるような代物では無かったので、小学生補正のお情けだったろうと思いますが、思えば絵でお金を貰う初めての体験でした。僕は物持ちが良いので、約30年前の、おそらくこの絵と思われるデータが手元に残っています。折角なのでここで紹介したかったのですが、残念ながら画像を開く術がありません。Z's STAFF KiD98で作られたZIMファイルが開ける環境をお持ちの方は是非ご連絡下さい。代わりに発掘した同時期の絵を置いておきます。こんなもんです。

追記:コメント欄でコンバーターを紹介していただき、無事にサルベージすることができました。これが賞を取った5万円のイラストです。どうぞ!

話を戻しましょう。その頃僕は、壁新聞を作る傍ら、MOTHER2のBGMを耳コピして譜面に起こす遊びに着手していました。そんな折にパソコン教室でMIDI製作を学んだものですから、当然楽曲再現に勤しむことになります。それから間を置かず、教室でRPGツクール(Dante98)と出会います。RPGが自分で作れるなんて、僕はとても興奮しました。MIDIでBGMも作れそうだし、それならば、MOTHER2の外伝ゲームを作ろう…!ただRPGツクールに収録されていたアセット画像はゴリゴリのファンタジー系ばかりで、MOTHER2の再現には向きません。そこでDante98と互換性のあるキャラクターツクール98というソフトを購入し、まずはキャラとマップチップのドット絵製作に取り組みました。手元には大量の攻略本があったので、キャラクターの完コピは思いの外簡単でした。そして、マップチップの製作に取り掛かり……これはあるあるだと思うのですが、あまりに膨大な下準備に心折れ、肝心のゲーム作りに着手する前にこの計画は頓挫してしまうのでした。

■同人活動の原点

時は過ぎ、僕はすっかりゲームの虜になっていました。毎週ファミ通を読み漁りながら、人気のRPGを片っ端からプレイする日々。近所のゲーセンやゲームショップに毎日入り浸っていました。このゲームショップには、ショップが発行する無料の情報誌が置いてあり、その巻末には同人誌や便箋の通販コーナーが掲載されていました。僕はそこで初めて同人誌というものの存在を知ったのです。

そんなある日、MOTHER2の続編、MOTHER3がNINTENDO64用ソフトとして開発中という記事を目にします。僕は心底喜び、急いでロクヨン本体を購入し、準備は万全。情報源としてゲーム雑誌「電撃NINTENDO64」を購読しながら、発売を心待ちにしていました。しかしMOTHER3はなかなか発売されません。正直なところ、RPG好きの僕にはスクウェアブランドを欠いたロクヨンのソフトラインナップはあまり刺さらず、実際に遊ぶのはプレステのゲームばかり。「電撃64」を買ってきても、読むのは毎回1,2ページしかないMOTHER3情報コーナーと、読者コーナーだけ…。けど僕は、この読者コーナーが存外に好きでした。なんだか大変居心地が良かったのです。そのうち読んでるだけでは物足りなくなって、僕も読者ハガキの投稿を始めました。なに、小学校の時にせっせと作った壁新聞と同じ要領です。たまにイラストも描きましたが、絵はあまり得意ではなかったのでネタを中心に勝負しました。壁新聞のために面白い記事などを集めていた経験がいつの間にか血肉になっていたのかもしれません。僕はあれよという間に、毎回ハガキが4~5枚掲載される、ランキング上位の常連ハガキ職人になっていました。ペンネームは秘密です。

僕はパソコンが得意だったので、この頃には自分のホームページを開設していました。今は跡形も無いはずですが、ヘタクソなイラストと、気に入ったゲームやアニメの情報なんかを載せていたと思います。もちろんMOTHER2のコーナーを添えて。経緯は覚えていないのですが、僕は「電撃64」の他の常連ハガキ職人達とホームページを通じて交流するようになりました。ある日、そのうちの一人からの提案で、常連を何人か集めてオリジナルキャラの設定とイラストを出し合い、RPGツクールでゲームを作って公開しよういう企画が立ち上がります。主催者は多分大学生か社会人です。なんだか凄いプロジェクトに誘われた気がして、まだ中高生の僕は浮足立ちました。急いでキャラクターを用意し、専用のBBSで他の参加者達との打ち合わせが始まります。プロみたいに絵の上手い人も居て、たいそうワクワクしたものです。しかしまあ、こんな雲を掴むような企画が上手くいくはずがなく、いつの間にやら話は立ち消え、プロジェクトは霧散するのでした。またも立ちはだかるPRGツクールの罠。罪深いツールです。

※多分その時のオリキャラのイラスト。この頃デ・ジ・キャラットに傾倒していたので、絵柄に面影を感じます。

僕の中学は県下一の進学校でした。授業のレベルはすこぶる高く、定期試験も酷く難解です。ただ中高一貫のエスカレーター式なのを良いことに、僕は毎日深夜までアニラジを聞きながらゲームに興じ、授業中は寝るか落書きばかりしていました。成績など二の次です。投稿ハガキのノリで、ノートの切れ端にネタや絵や漫画を書いては回し手紙で何人かの友達に投げつけ、読んで貰う毎日。みんなよく付き合ってくれたものです。僕は読んでもらうだけで満足でしたが、アンサーや感想をくれることもありました。この頃の友達は今でもコミケで売り子の手伝いをしてくれています。一人は今度結婚するそうです。おめでとう、ありがとう!これを高校生になってもずーっとやっていたのだから、相手をするのも大変だったでしょう。けど間違いなく、今に繋がる遊びでした。

※当時の回し手紙の一部が収められたパンドラの箱。多分読んだら顔から火が出て死ぬのでこのまま封印します。

2006年4月20日、ついにゲームボーイアドバンスでMOTHER3が発売されます。一時は64版の開発が頓挫するなど紆余曲折を経て、前作から12年。小学生が大人になるのに十分な時間です。僕はこのゲームの終盤を東京へ向かう新幹線の中でプレイしていました。ゴールデンウィークの同人誌即売会にサークル参加する道中だったと思います。僕は大学デビューで同人活動を始めて、あの頃憧れた商業アンソロジーへの掲載も叶えていたのでした。それでもまだ、そのまま漫画家になるとは夢にも思っていませんでしたが…。

ラストダンジョン、エンパイアポーキービルの博物館。ポーキーの思い出として、MOTHER2のBGMと共に懐かしいグラフィックが続々と出てきたところで、僕は感極まり、電車の中で人目をはばからず、少し泣きました。

…思いの外長くなってしまいました。以上が僕とMOTHER2と、それをきっかけにした創作にまつわるエピソードの一部です。もちろん僕が影響を受けたものや、熱中したものは他にもたくさんあります。けど、やっぱりこれが屋台骨です。糸井重里さんは創作の父で、MOTHERは文字通り母なのです。今年の5月、MOTHER2の新作グッズが発売されるイベントに買い物に出かけた際、会場内を歩いている糸井さんを間近で目撃するという出来事がありました。僕はとても感激して、何か感謝を述べねばと声をひり出そうとしたのですが、お話するなどあまりにも恐れ多く、ただただお姿を見ながら立ち尽くすばかりなのでした。

歳をとると自分語りをしたくなるもので、また気が向いたら、他の趣味や好きなもののことなど、つらつらと紹介したいと思います。煙たがらずに読んでもらえると嬉しいです。それでは、今日はここまで。PKサヨナラ!

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